
読書メーターを眺めていると、ふと我に返る瞬間がある。
――あれ、私は本を読んでいるのか、それとも「私の読書」というデータが、私を読んでいるのか。
数字、グラフ、統計。冷たい可視化の向こうで、私の内側の熱は切り刻まれ、消費され、そして小さな承認の快楽へと変換されていく。データの中の私が、勝手に「今月12冊」「今年50冊突破」とハイライトされている。その数字が私の読書を規定していく。まるで私が読む前から、結果だけが先に立っているかのように。
記録は尊い。これは否定しようがない。しかし、記録はいつでも「演技」を伴う。
レビュー欄に並ぶのは、素直な感想などではない。そこには舞台があり、観客がいて、私は今日も役者としてその場に立っている。時には誠実な記録者を装い、時には「俺はこの引用でお前を読む」という気配を漂わせる批評家を演じ、時にはただトレンドの波に溺れているだけの何者かになる。いや、これは決して悪いことではない。承認欲求は原罪ではなく、動力源だ。けれども、演技を演技として眺める冷めた視線を忘れた瞬間、「記録される私」が「読む私」を食い尽くす。
そして、ゲーム化の魔法が拍車をかける。
バッジ、ランキング、継続記録――この小さなRPGの世界で、私たちは黙々と経験値を積み、ステータスを更新し、読書という行為を「クエスト」に変換する。いや、それは楽しい。間違いなく楽しい。しかし、どこかで笑わずにはいられない。「読書家」を自称するこの身体が、毎日ログインボーナスを受け取るスマホゲーのキャラみたいになっているのだから。
数字は冷たいが、数字の周りには熱が集まる。
「年間100冊読みました」というポストには「すごいですね!」と称賛が飛び交い、「いや、冊数じゃないんです、質なんです」とか言いながら、次の瞬間には「今月はあと3冊で目標達成」と焦っている。ここには、質と量のジレンマという古典的な哲学問題がある。1冊を100回読む濃密さは、統計画面には表示されない。数字に換算できない濃度は、数字に駆逐されていく。
私は、ここで「誤配」という言葉を思い出す。
正しいレビューなど存在しない。レビューは形式であり、形式は必ず世界のどこかでズレる。そのズレのなかで、読む私が息をしている。完璧な記録を求めるな。誤配を恐れるな。誤配の余白こそが、記録の救いであり、読書の自由だ。
だから、メタする。
読書メーターを眺めながら、自分を笑う。レビューを書きながら、自分を疑う。数字を追いながら、数字に追われる自分をネタにする。そこに哲学が生まれる。「読書は孤独だが、記録は公共である」という逆説のなかで、今日も私は、短いレビューをそっと投げる。それは他者への呼びかけでもあり、私自身へのツッコミでもある。
記録することは、読むことを変える。
数字に呑み込まれず、記録を超えて、記録を遊ぶ。それが「読書日記アプローチ」の精神だ。数字を笑い、数字に踊らされながら、なおもページをめくる――その滑稽さこそが、私の読書を哲学に変える。