読んだ本:
つづきを読み進めた。
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メモ
なし
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日記
第一章は前回書いた通り「ポスト構造主義」の内容に移行した。
結論としては、ポスト構造主義には様々な形式があり一概には言えないことが分かった。
ロラン・バルト、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコーを筆頭とし、アメリカのイェ-ル学派においても「ディスコンストラクション」の技法が受容されポール・ド・マンらが批評活動を行った。
構造主義の筆頭ソシュールの行ったことは、言語の意図を放棄し、言語そのものの構造を研究する営みであった。
一章を読み終えた感想としては、ポスト構造主義はその構造の「虚構性」を暴き出した営みであったように思う。
イーグルトンによれば、構造主義者にとって「批評」とは、言語に対する言語、すなわり「メタ言語」を語ることにあったが、バルト『モードの体系』が明かしたのはメタ言語の存在不可能性であった。
ポール・ド・マンであれば、言語とはどこまでも「メタファー」であり、「虚構」であることを見抜いたとされる。
デリダに関してイーグルトンが語ったことは、ざっくりとまとめるのであれば、構造主義者(ソシュール)の理論のひとつであるシニフィアンとシニフィエから発生する意味作用は「虚構」であることを明かした点にあるとされる。
(非常に難解な批評家なので省略)
・・・
気づけば「文学とは何か?」という問いから「批評とは何か?」「意味とは何か?」「言語とは何か?」といった話題に刷り変わってきた感覚を覚える。
次の章は「精神分析」を扱うが、そろそろこの本の営みがなんとなく不毛に思えてきた。
つづく