知るということは思い出すということ。
「分かった」と何故言うのか、思うのか。
分かったと思う前に既に「知っている」という事実があるからではないだろうか。
でなければ分かったと判定する存在とはいったい誰なのか。
自分以外にあり得ない。
人は「分かる」ことをそっくりそのまま教えることは不可能である。
「分からせる」とは「分かる」ように仕向ける、促すことであり、「分かる」は主観的な体験でしかない。
他者はあくまで背中を押すだけ、、、
・・・
であれば、だ。
「考える」というプロセスがある程度見えてくる。
「思い出す」為に道を構築することである。
言葉で、論理で、イメージで「想起」へ向かって突き進むことである。
階段のようなものである。
一段、一段と高みへのぼる。
時にはイメージで
時には論理で
そして言葉で
やがてたどり着く
「分かった」
考えるとは思い出すこと
でもやはり不思議だ
思い出す前にどうやってそれらを「知った」のだろう
・・・暗黙知
知は深い
無知の知。