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「社会貢献」を哲学的に考える

の記事は、今僕が思っていることに対して、明日以降の自分がどう感じるのかを試すために書き残す。(約1500文字)

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・客観と主観を分ける

まず大事なことは客観的に認められる「社会貢献」というものだ。

概ね、「国益に寄与」「日本経済の発展に貢献」「会社の利益に貢献」「人の役に立つ」「社会福祉に貢献」「環境への配慮」などが挙がると思われる。

 

 

現在のところ、経済活動は地球上に存在する有限な資源を消費していく過程にある。

このままの状態では枯渇することが懸念されている。また、地球と共存ができないほどに環境が悪化する恐れもある。

つまり、経済活動は自然とトレードオフの関係にあるとみなせる。

経済活動に専念するだけではまだ生まれていない世代に迷惑をかけることをも意味する。

したがって、従来の経済活動における「人の役に立つ」というものは、イコール「今いる人の役に立つ」であるとも言える。

 

 

この先のお話は主観が混じるものとなるだろう。

 

・どの立場にたつか

およそ人間の目指す理想的な道筋は持続可能な社会の継続であることは否定できないと思われる。

しかしながら、すべての人間が持続可能な社会へ役立つものを提供できるはずはない。

「分業」というものがある。

 

 

この分業という概念は、主観的に言えば人間活動のすべてが含まれると考えられる。

家事は所得が発生しないのが常であるが、これは労働の再生産とみなされる限りにおいては、労働という概念に含まれると思われる。

 

 

従って、人はなんらかの活動をできる限りは、必ず社会的な繋がりをもつであろうし、誰もが分業を担う存在であるはずだ。

では何をしていくのか。これは個人の自由であり権利であると思われる。

つまり、反社会的活動でなければ、基本的には既になんらかの貢献をしているのであり、あとはどういう立場に立ち、どういうアプローチをしていくのか、本人に委ねられる。

 

 

・答えはあるか

社会貢献という漠然とした言葉にはそれなりの意味があると考えられる。

前提として、個人の持つ価値観の多様性にあると思われる。

今日では個人の権利が大昔のそれと比べて力強くなった。

今まで抑圧されてきたものが解放に向かっている。それを民主化というのだろうか。

 

 

価値観はやがて、拡散していく可能性もある。

何が正しいのか。何が正しくないのか。

それは政治と経済、そしてミクロ的な問題を通じて可視化されていくだろう。

 

 

ただ、そこには一定の普遍性を持つ価値観も存在するかもしれない。

それが正しければ、その価値観を持続可能なものとして保持していかなければならないだろう。

自由。豊かさ。富。幸福。

 

 

マクロで物事を考えると、どうしても平均だとか、中央値だとか、定量的なお話につながっていくだろう。

すると、逆接的に、それが人を「データ」として扱うようになり、個人的な事情が排除されかねない。

するとミクロの問題もまた、重要になる。

こうして、ミクロとマクロが弁証法的に作用しながらある解に収束していくのだろうか。

 

 

であれば、数字には絶対的な力は持ち得ない。

論理を越えるものがあるのかもしれない。

 

 

かくして、政治哲学ではこれが主な論争の的となる。

政治哲学においても、立場は多元的である。

自由放任主義新自由主義共同体主義、選好功利主義、、、、

 

 

もはや答えなどあるはずはないと分かる。

それでも「社会貢献しろ」と言えるだろうか。

逆に、違法性がなく、かつ社会貢献ではない活動などあるのだろうか。

 

 

このようにして、問いは無限に連鎖し続ける。

考えずに目の前に集中するか。

考えることを続け、迷い続けるのか。

これもまた自由ではないだろうか。

 

つづく