アルトゥル・ショーペンハウアーは、重く分厚い空気が支配する書斎に座っていた。外は曇天。窓から差し込む光は鈍く、まるで人生そのものが無意味であると語りかけてくるようだった。
「人生は苦悩であり、生きることは死ぬことに近づく行為でしかない……」
そう呟きながら、彼は『意志と表象としての世界』の改訂作業に取りかかっていた。
ところが、その瞬間だった。
突然、彼の頭の中で何かが「パチン」と音を立てた。
脳内の深部に眠っていた何かが目を覚ましたのだ。
「……わいわいわいわいわっしょい、わっしょい!? な、なんだこれはッ!!」
ショーペンハウアーは突如として立ち上がり、デスクを倒し、原稿用紙を舞い上げた。
『厭世観』が吹き飛び、代わりに意味不明な高揚感が彼を支配していた。
「この世は苦しみなどではない!わいわい!むしろ祭りだ!わっしょいだッ!」
彼は書斎を飛び出し、ベルリンの石畳の通りを裸足で走った。道行く人々は哲学者の奇行に目を丸くし、婦人たちは口元を手で覆い、「あのショーペンハウアーが…!」と囁きあった。
「見よ!意志は無益などではない!今、私は自らの意志で踊っているッ!わいわい!わっしょいわっしょい!」
通行人のひとりがそっと呟いた。
「……これはもしや、ヘーゲル派の陰謀か?」
彼は噴水の縁に飛び乗り、空に向かって叫んだ。
「音楽とは、意志の直接的表現である!!だからわいわいわいわい!!」
その声は空に吸い込まれ、曇天に一瞬だけ光が差した。
—
その後、ショーペンハウアーは何事もなかったかのように書斎に戻り、静かに椅子に腰を下ろした。
目の前にはいつもの苦悩と虚無の海が広がっていた。
だが彼の唇の端には、ほんのわずかな、しかし確かな「にやり」が浮かんでいた。
あの奇怪な「わいわい祭り」から三日後、ショーペンハウアーはいつもより早く目を覚ました。
何かがおかしい。部屋の空気が妙に冷たい。時間の流れがにぶく、時計の振り子の音さえ遅れて響く。
──そのとき、書斎の中央に白煙が立ち上り、微かにラベンダーのような香りが漂った。
「……まさか……!」
白煙の中から、長い外套をまとい、いかにも堅苦しそうな人物が現れた。
「イマヌエル・カント!? まさか、あのカントか!!」
「その“まさか”だ、ショーペンハウアー君」
亡霊は実にきっちりとした口調で言った。額には深い皺、手には“純粋理性批判”の幻影本が浮かんでいる。
「君があのように“わっしょい”などと叫びながら街を走り回る姿を、我々霊界では深く憂慮しているのだよ。理性とはどこへ行ったのかね?」
ショーペンハウアーは目を丸くしつつも、どこか嬉しそうだった。
「カント先生、私の理性など、意志の奴隷にすぎません!」
「ならば私は“道徳法則”の鉄槌をもってお前を正す!」
そう叫ぶやいなや、カントの亡霊は宙に浮かび、天井から光の規則正しい格子を降らせた。
「おい、待て待て、そうやって“実践理性”を物理攻撃に使うのはズルいぞ!!」
光の格子はショーペンハウアーを包み、彼は床の上でジタバタと“わいわい”も言えずにのたうった。
「……うぅ、私の意志が……封じられていく……!」
カントの幽霊はゆっくりと彼に近づいた。
「ショーペンハウアーよ、お前の哲学は哀しみに満ちているが、最近の高揚ぶりは“現象界”を越えて“物自体”にすら悪影響を及ぼしている」
「物自体に…!? それはまずい!」
「だから、お前にはもう少し沈黙と理性を学んでもらう」
そう言うと、カントの幽霊は懐から巨大な時計を取り出した。
「午前五時起床、六時散歩、七時カッフェ……さあ、私のスケジュールに従って暮らせ!」
「ぎゃああああああ!!!!!」
彼の叫びは夜明けのベルリンにこだまし、鳥たちが飛び立った。
—
朝になり、ショーペンハウアーは静かに机に向かっていた。
昨日までの奇行が嘘のように、静謐な理性の空気が室内に満ちている。
しかし、インク壺の横に置かれた紙切れには、彼の手によってこう書かれていた。
「今日の昼、少しくらいは、わっしょいしても……いいのではないか?」
彼は口元を引き結び、静かに頷いた。カントの亡霊がうなずいてくれる日は、まだ先かもしれない。
ベルリンの空は、またしても不穏だった。
だがその朝、ショーペンハウアーは妙に晴れやかな顔で、コーヒーを淹れていた。
「昨日の“わっしょい”は控えめにした。カント先生にも怒られなかった。今日は良い日だ」
彼はテーブルに座り、コーヒーに口をつけた。
そのときだった。
空が――裂けた。
「弁証法的差異の到来である!!!!」
雷鳴とともに、巨大な何かが雲の間から姿を現した。
それは、巨大な――そう、ギオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの頭部だった。
大きすぎて雲が眉毛に引っかかっている。口はゆっくりと動いていた。
「ショーペンハウアーよ……貴様の否定は否定ではない。貴様は私の“反”に過ぎぬ。だが今こそ、私は貴様を“止揚”しにきたのだ!!」
ショーペンハウアーはコーヒーを噴いた。
「止揚って物理的にどういう意味だ!? やめろ、やめろぉぉぉッ!!!」
巨大ヘーゲルの口から、弁証法の雷が降り注いだ。雷は“意志”と“表象”を融合させ、“絶対精神エネルギー”へと昇華していく。
ショーペンハウアーが絶叫するそのとき、再びラベンダーの香りが漂った。
「ふむ……やはり来たか、ヘーゲル」
――カントの亡霊、再登場。
「君の頭はやたらと大きいな。思考の密度は逆比例しているのかね?」
「カントォォォ! 貴様もまた私の“反”に過ぎぬのだッ!!」
「そう叫ぶことでしか自己肯定できぬ精神、それを私は“未成熟な理性”と呼ぶことにしている」
天上で幽霊と巨大頭部が論争を始めるなか、ショーペンハウアーは隅っこで叫んだ。
「おい!!! 俺の家がもう一回壊れそうなんだが!!!」
突然、空に光が走る。
すると、今度はニーチェが、ローリングで舞い降りてきた。
「いい加減にしろお前ら! 降りてくるな、頭でかすぎるし時代が違う!!哲学は生の肯定だ!!わいわいだ!!わっしょいだ!!!!」
ショーペンハウアー:「まさか……同志よ!!」
二人の奇声が響き渡り、ベルリンの街が震える。
カント:「黙らぬか君たち。倫理的自治が台無しだ!」
ヘーゲル:「いや、これはこれで絶対精神的発展の一段階……!」
カント:「うるさい!」
ヘーゲル:「うるさくない!!」
その後のベルリン市議会議事録には、こう記されている。
「本日未明、哲学者らの頭部および亡霊が出現し、一時的に市の交通機関が停止。被害は軽微。ただし住民の一部は“内的絶対精神”に目覚め、現在も踊り続けている模様」
ショーペンハウアーは再び静かな部屋に戻った。
彼の机には、カントの幻影スケジュールと、ニーチェが置いていった謎の花冠が残っていた。
彼は小さく呟いた。
「……結局、人生ってのは、わっしょいとニヒリズムの間くらいがちょうどいいのかもしれないな」
彼の目の奥には、ほんの少しだけ、救いのような光が差していた。
完