読んだ本:
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メモ
なし
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日記
先週、約20年ぶりに映画もののけ姫を観た。
子供の頃に観た印象としては、端的に不気味で退屈な映画、というものであった。
本書ではもののけ姫がそもそもエンターテイメントとして成立するのか、当時は戸惑いがあった面などが語られた。
監督もその点は勿論承知のうえでも、それでも子供に観てほしいと思っていたのだそう。
もののけ姫は「悪者」が誰なのかがハッキリしない。そのように語られていた。
たしかに、エボシは森からすれば悪者であるが、人間からすれば弱者にいたわる面があり善人にも見える。
物語の終盤に向かっていくうちに、犬神モロやエボシ、シシ神等の攻防が複雑に交差していく。
このわからなさは恐らく表現されるべきものであったように思う。
端的に、現実は不可知なものである。
現実は分かるようで分からない。
この映画は考えることの大切さを訴えていたように思うが、本人も恐らく本当のことを分かっていない。
曖昧さを残すことで、この映画の完結性を回避したのだと感じた。
問いかけは収束することもなく、いずれは映画を観た、当時子供だった若者が大人になっていくプロセスのなかでも、絶えず問いかけは各々のなかで繰り返される。
そのような狙いがあったのだろう。
余談にはなるが、小林秀雄『批評家失格』に「現実は不可知である」と書かれていたので、そこにピンとくるものがあった。