例えば、環境問題を持ち出して、「ひとりひとりが変わらなければ絶対に変わらない」と誰かが熱弁するときに、
「ただの綺麗事」
と切り捨てられるケースは、まあよくある例である。
この本質とはなにか。
「他人を信じる力を欠損させるシステムが存在する」という説を僕は支持する。
これがマクロ的なものとなると「性悪説」が登場する。
マキャベリやヴォルテールから学んだことはなんだったのだろうか。
例えば、科学では公理の設定を踏み外すと誤った方向へ進み、袋小路に行き詰まる。
「時間は絶対的なもの」を公理としたニュートン力学は限界があったように、マキャベリズムにも限界はないか。
物理学が新しい形式を必要としたように、人類の共存方法にも新しい形式が必要ではないか。
人類が環境問題を解決できないのであれば、それは公理が間違っていないか。
つまりは、究極的には法体系にも欠損があることを意味しないか。
綺麗事という、ありふれた言葉ではあるが、ミクロ的なものほど見落としてはならないのではないか。
つづく