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読書日記1161

読んだ本

アラン・マバンク『アフリカ文学講義:植民地文学から世界ー文学へ』みすず書房 (2022)

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』ハヤカワ文庫 (2023)

シュテファン・ミュラー=ドーム『アドルノ伝』作品社 (2007)

つづきを読み進めた。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

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日記

 

書店に行けば「世界を変えた○○」といったようなタイトルの本をたまに見つける。本も例外ではなく、世界や人々の価値観を書き換えた本は数多にある。

『アフリカ文学講義』は文学の可能性を感じさせられる一冊であった。

岡本太郎の留学時代の友人、ジョルジュ・バタイユが文学の意義についてこんなことを書いていた。

「文学のみが社会的約束を超えて、人間と歴史の方向を向いた破壊の特権を行使しうる。それが自由ということだ。文学は禁止と秩序の原理をぐらつかせることをもって使命とする。」

 

 

・・・

 

アドルノ伝』は100頁弱読み進んだ。

第一次世界大戦がどれほど思想家に衝撃を与えたのかが読みとれた。

資本主義に伴う文明の発達スピードが加速的に上昇し、それに比例して戦争の破壊力が高まる。なんらかの解決法を芸術と哲学に見出そうとしたアドルノの危機意識について読み取ることができた。現代は明日の生命が脅かされる当時ほどの危機的状況にはないかと見られるが、自分も哲学や文学でできることを日々考えている。

 

・・・

 

『実力も運のうち』は230項ほどまで読み進んだ。

サンデル氏は、マイケル・ヤングメリトクラシー』は能力主義の蔓延るディストピアであるという解釈をしていた。ロールズの政治哲学と交差させながら、機会の平等について掘り下げられた。平等については自由主義者ハイエクの議論を参照しながら考察が展開されていくので、正直なところ200項以降は難しいテーマとなっていく。

どんなに機会を平等にさせても必ず能力に差がある限り不平等は避けられない。正義の限界点が明らかになったとして、ではサンデル氏はどう考えているのか。今日もまだ結論まではたどり着けなかったが、サンデル氏の考察の進め方は引き込まれるものがあった。

 

 

本書のタイトルである「実力も運のうち」というこの表現は、言い換えれば「報酬(=成果)には才能や努力の要素が含まれるべきか?」という質問に対して「ノー」であるとする立場である。実力が運であるということは、つまり決定論的な世界観で「個人ではどうしようもない」と考える立場にある。全てが運で、努力も才能も運の要素に左右されるという考えだ。実際サンデル氏はそのような立場で論じているように感じるうえ、自分も環境が個人の経済的豊かさの大半を決定付けると考えている。

 

 

本書を読んでいくと、自由主義者ハイエクもそれに近い考え方をしていたと自分は解釈した。いや、まだ早計かもしれない。非常にややこしくなってきた。

サンデル氏によれば、ハイエクは功績と価値を分け、前者は道徳的な手柄、後者は市場の偶発性によってもたらされるものとした。また、後者は前者を含むべきでないという主張をしたとされる。つまり報酬と道徳的価値は無関係と見る考えである。

 

 

ハイエク)"先天的なものであれ後天的なものであれ、ある人の才能がその仲間にとって価値を持つことは明らかだが、そうした価値は、その才能を持つことで当人に与えられるべき栄誉には依存しない。こうした特別の才能がごくありふれたものが、非常にまれなものかという事実を変えようとしても、人間にできることはほとんどない。頭の良さや美声、美貌や手先の器用さ、飲み込みの早さや人間的な魅力などの大半は、ある人がテにする機会や経験と同じように本人の努力とは無関係だ。これらすべての例で、その人の技量や貢献がわれわれに対して持つ価値ーーその価値のおかげで本人は報酬を受けとるーーは、道徳的な功績や手柄と呼びうるいかなるものとも、ほとんど関係がない。" P234

 

 

自分は今日の時点では以下のように解釈した。

例えばファミコンの時代ではどんなにゲームが強くてもeスポーツのような市場がなかったので報酬を得ることはできなかった。ファミコンの時代に最強だった人は生まれる時代がほんの少し遅れていれば職業がゲーマーになった可能性が高い。

同じように、現代人もお金にはならないがなんらかの才能を持っている。様々な人が様々な能力を持っているが、そのなかのどれが高い報酬に結び付くのかは、今のゲーマーの例のように運でしかない。そういった要素は予測不可能のために政府で介入しようもない。これが限界であるから分配を考えるステージにさえもないということなのだ、と。

 

 

当たり前と言えば当たり前である。

自分はそのあと道徳とはそもそもなんのためにあるのか少し考えた。

今日、コロナ禍における自粛中の風俗産業の人への給付金をめぐる裁判で、結局当事者の主張は退けられたというニュースを見た。道徳的に合理性があるというものであった。職業に差別はあってはならないが、実際は存在していると自分は思った。そもそも履歴書に風俗産業の経歴を書くことすら憚れる世の中である。道徳と経済倫理の関係性について考えると見えてくるものはいろいろありそうである。

こういう問題は市場に国が介入しなければならなくなった為に起こった問題と言える。

 

 

市場と道徳に関係があるとしたら、それは何を根拠とするのか。

これを突き詰めると法哲学とも繋がる可能性があるのであまり深く考えないようにした。自分には手に負えない複雑すぎる問題であり、ややこしすぎる。しかし考えてみることに意義はありそうである。

正議論を論じるには制度の問題が絡むためにある程度法学についても知見が必要だと自分には思われた。

 

 

風俗産業は道徳的にNGなのは共感覚的には理解できる。しかしどこか腑に落ちない。というのも、結局は「立派な仕事」があり「底辺のやる仕事」という刷り込みが大衆に無意識の中にあるからではないか。むしろ道徳的には金融市場の投機家のほうが幾分悪だと思われるのであるが。

 

 

こういう問題意識はミシェル・フーコーやデヴィッド・グレーバーのような左派知識人が持っているに違いないが、あまり社会的インパクトがない点がもどかしい。

 

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