読んだ本
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メモ
"人間は状況を変えることなしには、状況を見ることさえできない存在である。"
P29 (『文学とは何か』)
”「すべての人が私の書くものを読んだらどうなるか?」と考えなければならなぬ。” P30 (『文学とは何か』)
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日記
今日は久々にジュンク堂に赴いた。
いつものように興味のある文学や哲学、芸術や映画の棚をうろうろとまわった。
独断と偏見ではあるが、映画と芸術の棚に置いてある本は「制作」という行為を今一度問いかける本が多いように感じた。それに対し、文学関係の棚はいまいちからっと乾燥していて、創造について問いかける本が少なく(ゼロではない)気力を感じなかった。
『失われた「文学」を求めて』は、そのようななかでも包括的に現代文学とその方向性を捉えようとする、数少ない本であるように感じた。
・・・
芥川賞の選考委員が『コンビニ人間』と『ジニのパズル』のどちらかを選ぶ際、島田雅彦氏しか後者を強く支持していなかったことが語られた。
後者は政治性が前者よりも強く出ていて、日本では政治性のある文学が受容されにくいのでは、という問題提起がなされた。
内容がなかなかに深いものであったので批評内容の詳細は分かりかねた。
私は村田氏の『コンビニ人間』と『地球星人』は読み通したが、後者は異様でグロテスクな小説という印象しか抱くことができなかった。
他にも、芥川賞受賞作の『ブラックボックス』も読み通した次第である。
『コンビニ人間』が芥川賞を受賞した主な観点は「現実がよく描かれている」というものであった。
これに対して著者は小説に現実性を求めることに疑問を呈する。
いつから小説は現実を描くようになったのか?と述べている。
小説の在り方は「表現の自由」と結びつけて語られるべきなのだろうか。
つまるところ、何を描くのかは個人の自由であって、そんなことを問題にすることすら憚れる、そういう意見が支持されるだろうか。
ではいったい、なぜ人々は本を読まなくなったのだろうか。
サルトルの本を読むと、彼はつねに読者の存在を意識していたように感じる。
これを突き詰めるとまたいろいろと問題があぶり出されるであろうが、今日は仕事の疲れもあってか、これ以上考察を続ける気力が起きなかった。
つづく
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