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読書日記972

読んだ本

池田晶子『死とは何か:さて死んだのは誰なのか』毎日新聞社 (2009)

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日記

 

233ページに「言葉と自分が一致していない人生は不幸だ」と書いてあった。

ここに、本書の全てが凝縮されているように思われた。

しかし、言葉と自分が一致するということは難しいのではないだろうか。

それは丁度、何千種類もの色を言葉でもって識別できないことに似ている。

 

 

日本は古来より、多くの色を識別する言葉を持っていたそうであるが、感情についてはどうだろうか。

英語を勉強していたときに、英語には感情を表す単語が豊富なことを疑問に思っていたときがある。

例えば「悲しい」という意味を表す単語として、

・sad

・grief

・sorrow

・distress

・mournful

・melancholy

・morose

・dismal

・gloomy

・dejected

・despondent

など、ニュアンスが微妙に違う複数の単語が存在している。

ここに心理状態と言葉の一致、すなわち「存在(内容)」と「形式(言語)」の同一性の困難さが垣間見えるわけである。

 

 

しかし、言葉の意味が「社会の取り決め」であるはずがない事は、プラトンイデア論を読みながら自分でも十分に考えたつもりであるし、池田晶子も似たようなことを書いていた。

 

 

 

前にも書いたように、原始の時代を考えれば、仲間と協力しなければ動物に食べられてしまう時代に「火」という言葉を「木」だと理解する道理はないのである。

これが歴史の連続性を経て次第に固定され辞書に編まれると考えるのが妥当である。

 

 

 

以上から、言葉は古典と似ている。

それは数百年、数千年の自然淘汰のなかで生き残ってきたものであり、数百年、数千年と意味を変えることなく存在してきたものである。

水は何万年経とうが水なので、それを指示する言葉が変わる道理はない。

言葉にはひとつひとつ必ず起源があり、ひとつひとつの理がある。

それをロゴスというのかもしれない。

 

 

言葉に対して本質的であろうとすることは何も変人とか頑固者とかそういう話ではなく、正しく言語を所有するということなのではないだうか。

 

 

行動は思想によって(あるいは時代の価値観、世論、広くいえばイデオロギー)だいたいは決まり(道徳など)、その思想自体は言語によってかたちづくられているのであるから、生活、人生は全て言葉によって構築されていると考えても不自然ではないし、むしろ真理に近いのではないだろうか。

 

 

つまり人生は言語の集積のうえで構築されるのだから、その基盤である言葉が弱ければ(言葉の使用方法が雑、あるいは出鱈目、非論理的、貫徹性のないこと)脆くなると考えるのが自然である。

 

 

その意味で「言葉と自分が一致していない人生は不幸だ」ということなのだろう。

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関連図書

 

池田晶子の本

 

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