読んだ本
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メモ
"最高の形式水準を備えながらも意味を欠くかあるいは意味に無縁である作品は、意味を否定することによって内容を獲得するために、たんなる意味を欠くものに留まることなくそれを超えたものとなる。" P262 (『美の理論』)
"意味を否定する芸術作品は、統一されたものでありながら混乱しているといった作品でなければならない。これがモンタージュの機能であって(・・・)映画はモンタージュにとって格好の舞台であると言ってよい。" P262 (『美の理論』)
"誰も守らない価値は廃れる" P23 (『芸術の脱定義』)
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日記
本をある範囲読みきったらアウトプットするよりも、思ったその都度書いていくほうが自身にとってプラスとなるのではないかと思うようになってきた。
教育学者の斎藤孝氏はメモをよく取るそうであるが、これは面倒であるがやはり大事なように思われた。
また、ブログで公に自分の文章をさらけだすこともプラスになると思うようになってきた次第である。
恥をかくと人は記憶に残るものである。自分の書いた文章は未来の自分にとってやはり恥であるので、これもプラスになると思われた。
というのも、2020年から2021年のアウトプットの仕方と2022年のアウトプットの仕方を今一度考えた場合、前者のほうが記憶に定着するように思われたからであった。
・・・
今日は思索欲が強い一日であった。
まず、『考える日々』のなかで、小説家の島田雅彦氏が「言葉とは交換価値である」と述べていたことに対して池田晶子が「同意できない」と批判しているのを読んだ。
島田雅彦。どこかで聞いた。
思い出した。あれはいろいろな賞を受賞している売れっ子作家だ、と。
昨日本屋で立ち読みしていた際、この池田晶子の批判文に触れる前に島田雅彦氏の『小説作法XYZ』やその他の氏の小説を軽く読んていており、氏にたいして若干の関心があった。
この人物のどこが優れているのか。
なぜ自分の書いた文章は一次選考すら通過しないのか。
しかし今日がっくりしてしまった。
島田雅彦氏は、現在は知らないが言葉が「商品」であると考えていたのである。
いろいろと考えるきっかけになった。
・・・
「言葉とはそのものが価値である。」
池田晶子は言葉の重要性を様々な本のなかで私たちに語りかける。
しかし、この本質がいまいち掴めていない部分がある。
そこで今日、ひとつ仮説を立てるに至った。
ローゼンバーグの言葉(メモに記載)にヒントがあるように思われた。
・価値とは存在の条件である。(条件は問わない)
このように考えてみた。
条件については「希少性」の問題である。つまり希少価値は「(条件の)厳密性」であると考えられる。
条件が厳しければ厳しいほど住みたい家がなかったり、結婚相手が限りなく狭められていくのはこれで説明がつく。
抽象的ではあるが、遊び半分でハイデガーの「言葉とは存在の住みかである」と池田晶子の「言葉とはそのものが価値である(言葉=価値)」をつなぎ合わせてみると、
「価値とは存在の住みかである」となる。
これはこれで面白い命題である。
池田晶子は絶えず語り書ける。
真理は内なるものにある、と。
内省、思索。
今日はひとつ前に進んだ気がするのであった。
(書ききれなかったことは次回以降に持ち越したい)
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