古典経済は、人間は常に合理的に経済活動を行うことを想定していた。
ところが「常に」どころか、本人は合理的と思いながらも、実際はそうはならない事例が多いことものちに判明する。
公理の設定を見誤ると正しく理論が機能しない。
物理学では、ニュートンは公理として時間を相対的とは想定していない。
のちに行き詰まりを見出した物理学者がこんにちの物理学を築く。
犠牲がなければ特に問題はない。
ところが、人文系はそうはいかないこともあるだろう。
過激派が生まれる。
この二分法に僕は疑問である。
世の中にある極左系や極右系の本は、文字通り極端な公理を設定している可能性があると僕はみている。
タイトルに「悪」がついていれば、まずこのことを最初に僕は考える。
「善」や「幸福」がついていれば後者を疑う。
極端な思想はまず性善説か性悪説か、この二分法を議論の根底に置いている例が多いと僕は感じている。
とはいえ、個人的には性善説であってほしい。
しかし、二分法は往々にして結論がずれることが多い気もする。
終わりよければ全てよし、というのは結果論にすぎず、理論の正しさを証明し得ない。
つづく