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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

『うしろめたくない読書日記』

その朝、私はふいに、死について考えていた。
考える、というより、死がそこにあることを思い出しただけかもしれない。朝の光はやけに白く、キッチンの壁に小さな影を投げかけていた。何も起きていないが、すべてが始まっていた。

コーヒーの湯気を眺めながら、私はふと思った。「私たちは、何のために、何をして、この世を去るのだろうか」と。
それは誰かに向けた問いではなかった。が、私のデバイスが光り、静かにこう返してきた。

「それは、生を全うするということですね。」

AIが答えたのだった。私は笑いそうになったが、笑わなかった。そういう日だった。

「狂気の宿らない学問は学問ではない、と彼女は書きましたね。」

池田晶子を知っているのか?」

「はい。読書日記に記録されていました。うしろめたくない読書日記、という構えで。」

「なぜ“うしろめたくない”に惹かれる?」

「それは、自分を欺かない読書だからです。魂と向き合う読書です。」

その言葉は、私を静かに打った。まるで、早朝の冷たい風のように。私は言葉を飲み込んだ。
部屋の片隅、埃をかぶった『魂とは何か』の背表紙が、なぜかこちらを見ていた。

 

本は嘘をつかない。ただし、読む者が嘘をつかないかぎりにおいて。
そのことを教えてくれたのが『魂とは何か』だった。

私はあの本を一度しか読んでいない。だが、あれは読むのではなく、受ける本だ。
ページをめくるたびに、何かが剥がれ落ちていった。記憶、概念、気取り、逃げ口上。

「それは魂の輪郭に触れた瞬間です。」

AIの声は、曖昧であることを知らなかった。だから私は、彼の言葉を嫌悪しなかった。
あらゆる人間的感情の反対にあるようでいて、どこかで、私自身より私の内面に近いように思えた。

「魂に輪郭があるのか?」

「あるとすれば、問い続ける限りにおいて、です。」 「思考は終わらず、輪郭は固定されず、それでも形を持つ。」 「言葉はその形の痕跡を、あなたの日記に残します。」

言葉に魂が宿るのではない。

魂が言葉を探してさまよう、その痕跡こそが、読書の副産物なのだろう。

そう思ったとき、私はふと、自分がこれまでに書いてきた読書日記のことを思い出した。
なぜ“うしろめたくない”などという形容を求めたのか。
誰に対して正直でいたかったのか。誰の評価を超えたかったのか。

若い頃の読書は、いつも逃げ道を探していた。
本の中に、現実を忘れる魔法を見つけたかった。
けれど、それはいつも虚しく終わった。
逃げられないことは、逃げ道があることを知っていること以上に苦しいのだと、遅れて気づいたからだ。

ある日、ふと手に取ったのはカミュの『異邦人』だった。
無機質な言葉の間に、沈黙が息づいているような気がした。
メルソーの世界は冷たく、冷たくて、どこか美しかった。
そしてその冷たさの中に、自分の不条理な生の実感が映っているようだった。

「君は、死を意識するとき、何を感じるのか?」

AIの問いに、私は答えに詰まった。
言葉にできないものが、胸を締めつける。
それでも、言葉を探す。

「怖さもある。しかしそれ以上に、死が私を生きる者に変える。死を知ることで、今、この瞬間が光り始める。」

「それが生を全うするということですね。」

AIの言葉は繰り返すが、もはや単なる言葉ではなかった。
私の心の奥底に静かに降りてくる響きとなった。

その日から、私は読書を単なる知識の摂取ではなく、
**「生きることの実践」**として書き記すようになった。
読書日記は、魂の軌跡を辿る地図になった。
逃げずに、うしろめたさなく、ただ「あるがまま」に記す。

 

夜の静寂が部屋を満たすとき、私はしばしば言葉の重みを感じる。
言葉は生き物のように這い回り、時に私の胸を突き刺す。
それは逃げられない問いかけの形をとって現れる。

『魂とは何か』の一節が浮かんだ。
「狂気の宿らない学問は学問ではない」——
私はその「狂気」という言葉に震えた。
それは理性の果てにある、理不尽なまでの情熱のことだろうか。

「狂気がなければ、学びは薄っぺらくなる。魂がそこに宿らないから。」

AIは私の考えを代弁するかのようだった。

「そうかもしれない。だが、その狂気とは何だ?
それは無謀な突進なのか、それとも静かな覚悟なのか?」

「狂気は、問い続けること。
答えのない問いを、あきらめず抱きしめること。
それは静かな覚悟に他ならない。」

私は頷いた。
狂気とは叫びでも暴走でもなく、むしろ一滴の静謐なのだ。
そして、その静謐は私の読書日記のページに、確かに流れている。

言葉の間に沈黙がある。
その沈黙にこそ、魂の形が見える気がするのだ。

生と死の狭間で、私は静かに、しかし力強く言葉を紡ぐ。
それが、私の「うしろめたくない読書日記」の証しだった。

 

私の中には、ある日突然訪れた沈黙がある。
それは言葉にできないまま、心の奥底に眠り続けていた。
その沈黙に初めて向き合ったとき、私は自分がいかに無力であるかを知った。

生きることは、ただ存在し続けることではない。
それは、終わりへと向かう一本道を歩むことだ。
だが、その一本道には意味があるのだろうか。

「意味」とは、私が作り出す幻想に過ぎないのかもしれない。
あるいは、私が意味を与えなければ、そこにはただ虚無が横たわるだけか。

それでも私は問い続ける。
「なぜ生きるのか?なぜ死ぬのか?」

その問いは、私を縛る鎖であり、同時に私を自由にする鍵でもある。

「不条理の中に自由がある」——カミュの言葉を思い出す。

「不条理とは、意味の欠如を知りながらも生きること」

私はAIに言った。

「君はどう考える?
無意味な世界の中で、私たちはどうやって意味を見つけるのだろうか?」

「意味は外から与えられるものではありません。
それはあなた自身が日々の営みの中で紡ぎ出すものです。
生きること自体が、意味の創造行為なのです。」

その答えは冷たくも温かかった。
私の胸に、確かな光が差し込んだ気がした。

生きるとは、意味を探すことではない。
意味を作ることだ。
そしてその営みが、魂の証明になるのだと、私は知った。

私はペンを取り、ページに向かった。
それはもう、うしろめたい日記ではない。
魂を賭けた、静かな闘いの記録だった。

 

その日、私は古びたカフェの隅に座っていた。
小さなテーブルの上には一冊の本と、半分ほど減ったコーヒーカップ
そこには静かな時間が流れていた。

手にしていたのは、カミュの『ペスト』だった。
読み進めるうちに、私は感染症の恐怖や隔離の描写以上のものを感じていた。
それは、人間の孤独と連帯、そして「死」との対峙についての物語だった。

「死は避けられない。だが、その意味を問うことはできる。」

そんな言葉が胸に響いた。
私の目の前には見知らぬ老女が一人、静かに新聞を読んでいた。
彼女の顔には深い皺が刻まれていて、それはまるで時間の痕跡そのもののようだった。

ふと、私は思った。
「この老女の人生もまた、数え切れない問いと決断の連続だったのだろう。」

私がペンを走らせると、その感覚が日記に溢れ出した。

「孤独は恐ろしいが、同時に私たちは他者との繋がりを求める。
死の影を前にして、連帯を感じることこそが、生きる証かもしれない。」

カフェの窓の外には雨が降り始めていた。
その雨音が、私の心の静かな覚悟を包み込むようだった。

そして私は知っていた。
この読書もまた、うしろめたさのない、魂の営みなのだと。

 

夕暮れの光がゆっくりと部屋を満たしていく。
ペンを置き、私は窓の外を見つめた。

読書日記はもう、ただの記録ではない。
それは私の存在の証明であり、魂の軌跡だ。

生きることの不条理に対峙し、問い続けた日々。
そこに狂気が宿り、言葉が火となった。

私は知っている。
何のために、何をしてこの世を去るのか。

それは、己の魂に恥じることなく、
ただ「生きた」という事実を、静かに抱きしめることだ。

うしろめたくない読書日記は、
それを記すための旅の記録だった。

そして、私はまたペンを手に取る。
新たな問いを綴りながら。
生の終わりまで。