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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1195

読んだ本

土佐弘之『ポスト・ヒューマニズムの政治』人文書院 (2020)

ジョン・デューイ『民主主義と教育 (上) 』岩波文庫 1975

高島和哉『ベンサムの言語論:功利主義プラグマティズム慶應義塾大学出版会 (2017)

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日記

 

午前中は『ポスト・ヒューマニズムの政治』を読んだ。

「環境的不正義」といった表現をたまに本屋でみかける。

SDGsを否定はしないが西欧の押し付けがましさは、未だに印象としては拭えない。

本書では構造的に「マッチポンプ」の様相を呈していると書かれている。

問題を引き起こしている側(先進諸国)側が解決を求めている。

 

 

本書では、19世紀から排出され続けている二酸化炭素の総量の3割が西欧の会社であることが書かれていた。

"また、一九世紀半ばから二一世紀初めにかけて排出された二酸化炭素総量の約三割についてはジェブロン、エクソンモビール、BPなどのオイル・メジャーなど二○社が排出したものとの推計があることが示している通り、類としての人間を強調することで、加害の構造を含めた環境的不正義について不問に付すことは許されないであろう。端的に言えば、何人かの論者が批判している通り、チャクラバルティの議論の立て方、つまり類としての人類を全面に押し出す議論には環境的正義の問題を不可視化しかねないところがある。" P55

 

地球温暖化の影響は貧しい国に大きくのしかかると書かれていた。

詳細に調べていないので分かりかねるが、自分達が引き起こした問題を仮に他の国にも押し付けているのだとしたらなんという不条理だ。

社会に貢献することが仮に二酸化炭素の排出に寄与することでもあれば、やはり倒錯している。

働けば働くほど、もともと地球温暖化には無関係であった国々に負担をかけることになるとすれば、自分は何のために何をしているんだと問わずにはいられない。

社会の貢献は不正義とのセットであるという、この二律背反のような状況で自分は生きているのだと思うと、社会の矛盾を意識せざるを得ない。

 

 

読み進めていくと、動物論や食料問題など現実的な問題が次々とあがってくる。

最近は倫理学のコーナーに「動物倫理学」や「生命倫理学」といった本が明らかに増えている。

しかし自分は違和感を覚える。それは倫理学ではなくて政治の問題ではないのか?と。

倫理学は、カントからすれば自由の法則を追求する学問であったはずだ。

分野にどうのこうの言うのも無意味かもしれないが、まさにこの現象こそがマッチポンプなのだと思わざるを得ない。

 

・・・

 

教育哲学にも関心があるので再度デューイを読み直すことにした。

教育の内容は社会の目的に依存する。

従って、『ポスト・ヒューマニズムの政治』でみられたように、倒錯した社会状態においては教育の内容もそれに引きづられるようにして倒錯していく。

そもそも教育哲学とは何を追求する学問なのだろうか?

デューイはヨーロッパの歴史から、近代の教育の目的は人格の発達ではなく、規律訓練であると書いていた。

 

 

"とりわけドイツ思想の影響の下でーー(・・・)「人格」を形成することではなく、公民を形成することが教育の目標となったのである。" P152 (『民主主義と教育 上 』)

 

"教育の過程は、個々の人格の発達というより、むしろ規律的訓練の過程と考えられた。" P153 (『民主主義と教育 上』)

 

"教育哲学は、その二つの観念を調和させようとした。" P153 (『民主主義と教育 上』)

 

ここでようやく納得がいった。

ある程度の詰め込み学習を許容しながらも、社会的目的とは別の、人格の形成も同時に達成させるための方法について考えるのが教育哲学の仕事なのだと理解できた。

では人格の形成とはなにか。そもそも人格とはなにか。

デューイの次の言葉をノートに書き写した。

 

「人間を外的拘束から自由にする第一歩は、誤った信仰や理想という内的拘束から彼らを解放すること」

教育の本質が端的に表現されていると自分には思われた。

何をもって誤った信仰、理想と言うのかは難しいが、教育も倫理学も、最終的な目標は「自由」という点で一致している。それが「人間の条件」だと自分には思われた。

 

・・・

 

ベンサムの言語論』のつづきを読み進めた。

なぜサブタイトルが功利主義プラグマティズムなのか。それはラッセルなど、論理実証主義らの発想を共有しつつもリチャード・ローティクワイン、そして言語行為論者たちの仕事にも通ずるからだと著者は述べていた。

 

"以上のような近現代の、主として英米圏における哲学の主要な流れに則してみた場合、ベンサムの言語論は、次の二点に関して、その位置づけが難しい複雑な性格を有している。すなわち、まず第一に、それは<語の意味とは観念である>というロック以来の心理主義的な言語観から出発しつつも、フィクションの分析に関しては、語ではなく文の意味の単位とみなす発想を示している点でラッセルや論理実証主義者たちの仕事に通じる側面を有している。にもかかわらず第二に、ベンサムの言語論はプラグマティズム的な知識観や言語観を含意している点で、ラッセルや論理実証主義者たちではなく、むしろクワインやローティや言語行為論者たちの仕事に通じる側面ーーつまり「プラグマティズム的転回」の先駆者としての側面ーーを有している。" P120 (『ベンサムの言語論』)

 

 

言語行為論者は、言語が「事実の記述」としての機能を持っていることに対して批判した。

そうではなくて、言語は言葉を用いて展開される「社会的実践」によって意味が規定される(=言語行為論=パフォーマティブ論)と考えた。

 

 

一方ローティは、言語は「実在との一致」の程度によってではなく、記述に先立って人間が有する「目的との適合性」によって意味が規定されると考えた。

 

今日の内容は難しいが、ひとまずベンサムがこれらの発想と通じるという話はおさえた。

 

 

121項から先はベンサムが影響を受けた啓蒙思想について語られていく。

ベンサムはベーコンを天才とみなしたと書かれていた。

 

ベーコンはアリストテレス論理学について、「形式の妥当性に重きを置いていて、形式によって言葉が明晰な概念や事物を指示しているかのように信じ込ませるのだ」と批判したとされる。

 

 

言語がいかに人間を規定しているか、ということを再度考えさせられる。

物質の価値は精神が決める。

しかしその精神もまた同じ精神によって価値付けされる。

「言葉はそれ自体で価値である」と池田晶子が書いていた。

 

 

デューイ、プラトンベンサム池田晶子

読めば読むほど相乗効果で哲学の面白さが増していく。

 

つづく

 

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