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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1170

読んだ本

池田晶子『無敵のソクラテス』新潮社 (2010)

カント『判断力批判 (上) 』光文社古典新訳文庫 (2023)

筒井康隆虚人たち』中公文庫 (1984)

仲正昌樹『現代哲学の最前線』NHK新書 (2020)

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日記

 

判断力批判 (上) 』は250ページくらいまでは読み進んだ。

昨日は「美 ≒ 趣味」としか思えなかった。この点の疑問を解消するべく読み込む。

また、カントの用いる「合目的性」や「目的」という言葉についても、なるべく日本語の言葉として理解するのではなく、文脈から推測できるように努めた。

「ここはメモしておこう」と直感的に判断したものは残した。

アウトプットしていきたい。

 

 

まず152ページの言葉をメモした。

"また合目的性(目的の形相)とは、ある概念がその客体にたいしていかなる原因であるか [という原因性] を示すものである。" P152

 

 

ピンとこない。

次に161ページの言葉をメモした。

"趣味判断において魅力や感動がいかなる影響も及ぼしていないか(たとえそれらを美しいものに対する適意と結びつけることができるとしても)、たんに形式の合目的性だけ規定根拠としている場合には、そうした趣味判断は純粋な趣味判断と呼ばれる。" P161

 

 

やっぱりピンとこない。

そのあとは電車でだらだらと読んでいた。

もう一度カフェに入ったときに再び精読を開始した。

ひとまず残したメモを書き残したい。

"これまでの分析の結論を確認するとすれば、すべてのことが趣味という概念に収斂してくることがわかる。趣味とは構想力の自由な合目的性とのかかわりにおいて、対象を判定する能力のことである。" P209

 

 

やっとある程度掴めた。

こういうものは具体的な例とともに示して欲しいがカントはほとんどしない。

だからこちらの想像力と気力で埋め合わせしていかなければならない。

「美」から享受する「快」も、「趣味」から享受する「快」も、「楽しい」という意味では同じである。

しかし享受の「仕方」は違う。

10才の男の子と30歳の男性を比較すれば分かる。

10才の男の子は今、数学にハマっている。算数はとっくに学び終え、初めてマイナスの概念を習得した。彼にとって一次方程式は快感の連続である。常に未知との遭遇。彼は二次方程式をマスターしたいので日々燃えている。

一方、30歳の理工系大学を出ている彼は数論にハマっている。彼にとって一次方程式は「つまらない」のである。それは強豪校の野球部員がバッティングセンターへ行って80kmの初心者用のバッターボックスが低レベルで「つまらない」のと似ている。

 

 

つまり、趣味はレベルのようなものを要求している。

それはお金持ちが高級車を好むのと似ているかもしれない。

126ページにこう書いてある。

"美は概念なしに、普遍的な適意の客体として表象されるもののことである。" P126

「レベル」というものも概念のひとつと考えれば納得できる。趣味は美とこの点で無関係である。

 

 

その後、『判断力批判 (上) 』崇高の分析論に移行する。

ページの枚数的にはまだまだ前半である。そして下巻もある。どれだけ考えたらこの分量を、この緻密さで書けるのだろうと思わざるを得なかった。

 

・・・

 

池田晶子『無敵のソクラテス』を久々に読んだ。やはり面白い。

彼女の言葉を相当吸収した自負はあるが、しかしまだまだ学び足りないと感じた。

貨幣と虚構の話につながる「理想をもたずに生きてみろ」はとくに面白かった。

 

 

価値という言葉、これは考えれば考えるほど奥の深い空間が広がっている。

コロナ禍によって「人文学や芸術は役に立たない」から「不要不急」の対象であることが明らかになった。

それは分かる。たしかサルトルだったか、「飢えた人間の前で文学は役に立つのか」と問いを突き出した。

緊急事態では役に立たないのは分かる。

 

 

しかしよく考えてみれば、そもそも人文知は「定性的」なものである。

定量化しようがない。「授業開始前の読書時間が成績アップに繋がった」という事例なら無くはないかもしれない。

そうではなくて、そもそも「目に見えない」ことを扱う学問であると言えるこの人文において、どうやって定量化して「このくらい役に立ちました」と言うのだろうか。

ナンセンスである。

 

 

人間が反省するとき、失敗を振りかえる時、どんな能力が求められるか。

数字から考える「定量的」アプローチと、事実ベースから考える「定性的」アプローチがあるのではないだろうか。

前者は論理学は幅を利かせるだろう。だが考える問題が人間に関するものの場合、後者の「定性的」アプローチのほうが重要のはずである。

 

 

「なぜあのような言葉を浴びせられたのか」

「なぜ怒らせてしまったのか」

数学は最強ではないのと自分は思っていて、実務ベースであれば想像力が幅を利かせるはずである。

そういうものは知識と合わせて目に見えない世界のことを考える能力が必要とされるはずだ。

 

 

だいぶ話が逸れてしまった。池田晶子はモノに価値を与えるのは精神だと語る。当たり前で、どんな商品にどんな価格が見合っているか、それは主観の問題である。それが需要と供給が均衡していき相場が決まる。

しかし見逃しがちなのは、そのモノに価値を与える精神に対して価値を与えるのもまた精神である、という池田晶子の言葉は響いた。

「それ自体で善」

カントの『道徳形而上学の基礎づけ』はこの点において池田晶子と接点を共有するのであった。

 

・・・

 

『現代哲学の最前線』も再読。

正義論の基本は押さえたつもりであったが、まだまだ力不足だと感じてしまった。

『実力も運のうち』の著者、マイケル・サンデル氏は功利主義的な考えをもっている印象を抱いたが、どうやらそうではないようである。

44ページではっとさせられた。

"サンデルにいわせると、「善に対する正の優位」は、ロールズに限らず、リバタリアンや自律を重んじるカント主義者、自由を功利主義的に基礎づけようとするミル流功利主義者など、あらゆる近代自由主義者の共通の前提になっている。" P44

 

 

「共通善」という概念には共通の前提というものがあって、自分はそれを理解していなかった。

サンデル氏は共同体主義者と親和性があるとされるが、倫理学をベースに自律に重きを置いているカントともある程度の領域を共有しているとすれば、どういう点から意見が分かれていくのかを確認しなければ『実力も運のうち』で読んだ時間が無駄になってしまうかもしれない。

本書は今読んでいるアクセル・ホネットやマーサ・C.ヌスバウム、個人的関心のある心の哲学も扱っているので、再読に最適な時期だと感じた。

 

つづく

 

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