読んだ本
つづきを読み進めた。
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日記
『新世紀のコミュニズムへ』を読み進めると「脱成長派vs成長派」について書かれていた。
後者は、例えば学者ではないが堀江貴文氏がネット配信番組で「成長しかない」と語っていたことを覚えている。
本書を全部読み終えていないのでなにも言えないが、脱成長派が成長派に対する批判の仕方として「どんな技術が生まれるかは現時点では分からない」という主張は共感できる。
二酸化炭素排出量を減らしながらも経済成長も目指すという「デカップリング」が可能かどうか。斎藤氏は理論的に見て「不可能」だとした。
また、大澤氏は「ジェヴォンズのパラドクス」を例に出した。
これはウィリアム・S・ジェヴォンズという人物が『石炭問題』のなかで、技術革新によって効率的に石炭を利用することが可能になったものの、需要が増加したことで結果的に二酸化炭素の排出量は増えた、というパラドックスである。
つまり、どんな画期的な技術が生まれても需要が増加することでデカップリングできない、という主張であった。
加速主義(=成長派)は経済成長を絶対的に優先する原理が働くので、需要が生まれれば満たそうとする動機が生まれるのは当然だ。
全体的な需要が増加しなければいいのだが、インフレや戦争によってエネルギーコストが上昇していくこの現代社会では、二酸化炭素などお構いなしに、むしろそのような素晴らしい技術を歓迎するのではないか。と、想像することはできる。実際にどうなるかは素人にはとても想像つかないが。
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『不可能性の時代』と『アディクションと金融資本主義の精神』は抽象的な政治思想の話へとシフトし始めた。高校時代は完全に理系であった自分には少々難しく、まだまだ勉強が足りないと痛感。
ルソー、ホッブズ、ジョン・ロックなどの政治思想に関する基本中の基本も分からない自分が恥ずかしい限りである。
仲正氏の本を読むことで、若者が政治の話をあまりしないように感じる(一部偏見あり)背景が見えてきた。
ハーバーマスのいう「市民的公共圏」のような場が日本にはあまりないように感じた。
政治的な問題が、専門家でもハッキリとは分からないくらいに難しくなっている。
これは『不可能性の時代』において書かれていた「正義の不可能性」に通ずる。
「知」から「倫理的・政治的」な決定を下すことはできないというのがその内容であった。
自分はこれを「ヒュームの法則(「~である」から「~べき」を引き出すことは論理的に不可能であるという法則)と重ね合わせた。
「知」はそもそも「事実」がベースであるので、事実から「倫理的・政治的」決定は下せないと言い換えることができる。
いろいろな現代哲学の本を読んできたが、ヒュームの法則を完全に論破した人物はいないように思う。
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新聞はもともと、議会における難しい問題を噛み砕いて市民に議論を促す役割もあったそうである。しかし今日はどうか。
複雑極まる政治問題を、どうやって市民的な議論へと向かわせることができるのか。
中傷や荒しの多いネット空間ではほぼ不可能と言っても過言ではない。
かくして、10代の若者は政治に対して「学習性無力感」を覚えたかのように受験勉強や部活にいそしむ。(一部偏見あり)
仲正氏の本をいろいろと読んでいると、政治的な問題をすぐに「既得権」に結びつけて論じようとする態度にうんざりしている様子が伝わる。
自分はこの何気ないものに、なにか深い意味があるとみている。
本屋で社会問題に関する新書などを立ち読みすると「日本ではイノベーションが既得権によって生まれにくい」といった筋の論調がある程度見受けられる。
ここは冷静にみていきたいところだ。
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ひとまず、訳の分からなかった大澤氏の難しい文章になんとかくらいつき、なんとか最後まで読み通せそうなので及第点だと思いたい。
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関連図書
仲正氏の本