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山口真由『リベラルという病』新潮新書(2017年)読了

ちらの続きである。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

薄い本ではあるものの、中身は非常にボリュームがある。

もし二回目を一読する機会が今後あれば、また違った印象を抱くかもしれない。

 

・日本のリベラルとアメリカのリベラルの違い

アメリカでは共和党民主党の二大政党が対立している。

一般に、前者は「小さな政府」を擁護する「コンサバ(=保守)」であり、

後者は「大きな政府」を擁護する「リベラル」とされる。

 

 

本書では、それに対して日本では自民党民主党もハッキリとした「イデオロギー」を持たず、アメリカのように「コンサバVSリベラル」の二分法が見受けられないという見解であった。

では何故タイトルが「リベラルという病」なのか。病とはなにか。

 

 

本書によれば、アメリカのリベラル派は理性というものに信頼を寄せているのだという。

大きな政府」のもと国民の介入をすること、それは前提として、理性によってあらゆる物事は「コントロール可能」という信念を持つことを意味するのだそう。

 

 

ただ、近年テクノロジーの進歩によって、ミクロ的には遺伝子の観点、同姓婚や精子バンク等により「親」の定義が錯綜し、混乱を極めている。

コンサバはあくまでも伝統的な「法律」のみによって、徹底的に感情を排除して裁判を遂行する。

 

それがリベラルにとっては不都合である。

何故なら、古い体制のもとでは近年のLGBTのような状況に対処できないからである。

つまり、リベラル派にとっては生きづらい社会なのだ。

 

 

そしてリベラルは「政府による自由」を求めて戦う。「承認」を求めている。

ただ、それが逆説的に事を混乱にさせ、難しくさせ、「不自由」な状況へ導いているのも事実だ。

 

 

僕の解釈では、そんな向こう見ずなリベラルは、理性によってあらゆる物事は「コントロール」できるという過信があると山口氏はみている。

だから「病」という言葉を選んだのだとみる。

 

 

感情と法律の対立をめぐっては、裁判官は計り知れない負担を抱えて判断を下しているのだろうと察する。

裁判官は法律に準じながらも、争いを論理のみによって理解することはできない。

争いには非論理的な要素も含まれるからだ。

 

 

本書では、同姓婚を認めた判事は「リベラル」と見なされてしまう。

また、共和党を支持する大統領であれば判事を外される可能性が高い。

これがアメリカの政治だ。

 

 

アメリカの政治事情に関して広い視野で勉強させてもらえる一冊であった。

つづく