つづきを展開
問いを発した瞬間、答えはすでに後退する。まるでこちらが一歩近づくごとに、向こうが一歩引いていくように。人間は問うことで理解に近づいていると信じるが、実際には理解をずらし続けているのかもしれない。子どもが「なぜ空は青いの?」と問うとき、大人は「空気が光を散乱させるからだよ」と答える。だがその瞬間に、別の問いが立ち上がる。「なぜ散乱するの?」。説明が続くたびに、知識は厚みを増すのではなく、裂け目を広げる。裂け目の奥に「最後の答え」が待っていると思うのは幻想で、問いはただ答えを遠ざけるためにあるようにすら見える。
この現象をヒュームは皮肉のように予告していた。因果を追えば追うほど、そこには「習慣」があるだけで、必然性はない。問いは必然を欲するが、答えは習慣に還元される。その落差が、問いの虚しさを強調する。「なぜ火は熱いのか?」──「いつもそうだから」。子どもには納得できないが、哲学的に言えばそれ以上の答えは存在しない。問いを重ねるほど、答えは「ただそうなっている」へと後退する。
だがこの後退こそが、人間を哲学的にする。タレブの言う反脆弱性を持ち出すなら、問いの無限後退は思考を揺さぶり、かえって強くする。確実な答えを持てば人は硬直する。だが答えが逃げることで、人は柔軟さを学ぶ。問いは答えを遠ざけるが、その遠ざかりが「耐える筋肉」を鍛える。世界を一撃で理解しようとする衝動を手放し、ゆらぎを抱える術を育む。
ブランショならこう言うだろう。書くことは、答えに到達するための橋ではない。むしろ書くこと自体が、答えから遠ざかる運動である。作品は未完を宿命とし、問いの形でしか存在できない。読者が「結論を知りたい」と思うとき、作品はむしろ彼らを別の問いへと押し流す。だから文学は終わらない。問いは夜のように深く広がり、答えを隠しながらも、それでも語らずにはいられない衝動を与える。
問いが答えを遠ざけるもうひとつの理由は、答えが「終わり」を意味するからだ。問いは開く。答えは閉じる。人間は閉じることを恐れ、開いたままでいたい。だから問いを続ける。実は私たちは答えを求めているようで、答えを避け続けているのではないか。答えに到達した瞬間、探究は終わり、冒険は止まる。止まることが死に似ているから、人は問いを武器にして、終わりを先延ばしにする。問いは遠ざけではなく、延命なのだ。
しかしこの延命は同時に中毒でもある。「なぜ」を問う快楽に浸りすぎると、問いのための問いが量産される。逆説は量産の温床になる。「なぜ働くと生活できないのか」「なぜ貯金するとお金が使えなくなるのか」。これらは人間の矛盾を映すが、繰り返すうちに「矛盾を探す快感」だけが残る。その快感は、答えの不在を正当化しすぎてしまう。問いは遠ざけるが、遠ざかりすぎると虚無になる。問いの力は、答えを遠ざけることにではなく、答えに近づこうとする緊張感との間にある。緊張が失われれば、問いはただのゲームになる。
それでも、ゲームであっても人は問いを続ける。なぜなら人間そのものが逆説だからだ。私たちは答えを求める動物でありながら、答えを嫌う動物でもある。愛の答えを欲しながら、愛を定義された瞬間に息苦しさを覚える。生きる意味を問うながら、「生きる意味は○○だ」と言われると納得できない。問いは人間の欲望と恐怖の両方を映している。
逆説的に言えば、問いが答えを遠ざけるからこそ、人は答えに近づいている。遠ざかり続けることでしか、近づけない対象がある。たとえば「幸福」という言葉。直接つかもうとすると消えるが、問いながら回り道をしているうちに、不意に幸福の光景に出会う。問いは遠ざけるが、その遠ざかりの道筋が「経験」となり、結果的に答えよりも豊かな理解をもたらす。
なぜ問いは答えを遠ざけるのか。最終的に言えるのは、問いが答えを「守る」からだ。もし答えがあっけなく捕まってしまえば、それはすぐに使い古され、消耗される。答えは問いによって遠ざけられることで、価値を保ち続ける。問いは、答えを「夜の遠く」に隠すことで、私たちを走らせる。私たちが惹きつけられているのは、答えそのものではなく、その遠さなのだ。
だから私は今日も問う。問えば問うほど、答えは霧の奥に消えていく。それでも問いを重ねる。なぜか。それは問いが遠ざけることで、書くことが続くからだ。問いが尽きたとき、書くことも止まる。問いが遠ざける限り、私はまだ書ける。遠ざかる答えは、だから救いである。