はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

自由を広げれば広げるほど縮んでいくものはなーんだ?

関連記事

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

 

 

・・・・・・・・・

答えは、選択である。

なぞなぞの形式で問うと軽やかに聞こえるが、これは日常に潜むもっとも深刻な逆説だ。自由を求めて我々は制度を作り、選択肢を増やす。だがその結果、私たちは自由を失い、決定できずに立ち尽くす。タレブが「反脆弱」で語ったように、人間は極端の中でこそ力を得るのに、中庸を美徳とする設計は脆弱さを増幅する。選択の無限化は一見「極端」だが、実はもっとも脆い“中庸の罠”でもある。

スーパーで十種類のドレッシングを前に固まるのは日常の喜劇にすぎない。しかし、職業・居住地・婚姻関係・自己表現のあり方といった根本的な自由に関しては、その「選べなさ」が悲劇を生む。自由を拡張する社会的努力が、なぜか人々を萎縮させる。これは偶然ではなく構造だ。

タレブ的に言うならば、「選択の冗長性」が人間に反脆弱性を与えるどころか、選択の“幻影”が脆弱性を増す。つまり、選択肢が増えても、それを使いこなす試行回数や小さな失敗の機会がなければ、自由はただの重荷になる。

思い出すのは、結婚の自由が「結婚できなさ」という新しい牢屋を生んだことだ。昔は「親が決める」あるいは「共同体が押し付ける」ものだった。それは不自由だが、一種の強制された凸性であり、小さな不満や偶然の幸福に曝露されることができた。しかし「自由恋愛」や「婚活市場」が整備され、選択肢が増えた結果、最適化の地獄が始まった。条件を比較し、未来をシミュレーションし、無限の可能性に圧倒され、決定の瞬間が永遠に遠のく。自由は広がったが、選択は縮んだ。

ここにタレブ的視点を挟むと見えてくる。自由とは「多くの小さなリスクを引き受ける環境」であり、決して「すべてをシミュレーションして安全に決める状態」ではない。むしろ後者は「ブラックスワンを排除しようとする理性の傲慢さ」に近い。自由を増やした社会は、同時に「失敗しないように」という文化的プレッシャーを強める。結果、人々はオプションを持ちながら使えず、自由の外殻だけを抱えた不自由な存在になる。

なぞなぞの答えは「選択」だが、もう少し突っ込めば、「選択できる自分という幻想」こそが縮んでいくのかもしれない。自由を広げるということは、選択主体としての自己像を強烈に前提してしまう。「あなたは選べる」「決められる」「自己決定できる」という圧力。だが実際には人は弱く、偶然や慣習や誤配に支えられて生きている。偶然に身を任せたほうが反脆弱に強くなるのに、制度は「あなたが選べ」と背中を押す。そこで縮むのは選択そのものよりも「選ぶ私」というフィクションなのだ。

ブランショ的に言うなら、選択は「不可能なもの」を前提とした営みだ。語ろうとすれば壊れる不可能性のなかで、言葉を投げ続ける。問い続けることと同じく、選択もまた終わらない運動だ。タレブ的には「小さな選択を重ねて強くなる凸性」が重要なのだが、現代社会は「大きな一発選択」を押し付ける。職業選択、伴侶選択、居住選択。これらはすべて「不可逆的な決断」として提示される。自由を広げたつもりが、むしろ破滅確率(ルイン)を高めてしまう仕組みに陥っている。

「選択肢が多いと自由に見える」という直感は、統計的には逆に作用する。たとえば投資の世界で「商品が多い」ことはむしろ素人に損失を増やす。タレブはバーベル戦略を説く──安全資産に大きく張り、残りを極端にリスクへ投げろ。中途半端に「選択肢を広げて分散する」ことが最悪だと。これを人生に当てはめれば、「なんでも選べる社会」が最悪の分散を強いている。結果、人は平均的に脆弱になり、誰も極端に反脆弱になれない。

冗長性が生存条件であるなら、選択肢の多さも冗長性のように見える。しかし冗長性は「余剰を持つ」ことであり、必ずしも「選べる自由」ではない。例えば山に登る時に水を一本余分に持つのは冗長性だが、水の種類が三十種類あって登山口で迷うのは冗長性ではなく負債だ。自由の拡張は冗長性と見せかけて、実は決断麻痺という負債を膨らませている。


結局、なぞなぞの一言は鋭い刃だ。「自由を広げれば広げるほど縮んでいくものは?」──答えは「選択」。その瞬間、私たちが信じてきた自由神話が瓦解する。自由を手にするとは「選択肢を増やすこと」ではなく、「小さなリスクを引き受ける余地を残すこと」だ。偶然に曝露され、予測不能ブラックスワンに身を開き、冗長性を大切にし、via negativaで引き算を選ぶこと。

読書日記アプローチ的に言えば、ここで読まれる本は必ずしも「自由論」や「リベラル思想の古典」ではなく、むしろ失敗談や日記やフィクションだ。なぜなら、そこには小さな誤配の痕跡が残っているからだ。制度や理論が広げた自由を縮めるのではなく、誤配と偶然が余白を残す。

なぞなぞは子供の遊びだ。しかし「なぜなぜ」につながると、そこには哲学が開く。タレブ的読書日記アプローチは、この遊戯性と哲学性の交差にある。問いをなぞなぞとして軽く投げる。答えは皮肉の形で返ってくる。だがそこから逆説の深淵が立ち上がる。自由が広がると縮む、選択が増えると決められない。──この日常の逆説にこそ、反脆弱の核心が潜んでいる。

だから私たちが学ぶべきは、「もっと自由を」という叫びではなく、「もっと失敗を」「もっと小さな決定を」「もっと偶然を」という実践だ。選択が縮むのは、私たちが失敗に曝露される場を失ったからだ。なぞなぞに戻ろう。遊びに戻ろう。遊びこそが唯一の反脆弱性を生む。

 

 

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com