読んだ本
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日記
人類学という学問は歴史的に優生学と同様に、差別の観点からスタートしている。
ジャンルを問わず、西洋の人々が自分達とは違う外見の人々を「人間ではない」と考えていた、あるいは発言していたと書かれている本は枚挙にいとまがない。哲学者ではエマニエル・カントがその代表格と言える。
人類学の発展は過去との断絶、あるいは乗り越えることを意味してきた。
従って、人類学は科学とは違い累積的な学問とはやや違う性質を持っている。そのようなことが書かれている。
とりわけその断絶に貢献したのは別の分野での研究であった。エドワード・サイード『オリエンタリズム』では、西洋人が非西洋人を描くことに権力性、暴力性があることを論じ、人類学者は異文化の研究をすることの正当性すら剥奪された、と本書には書いてある。
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そもそも何のための「人類学」であったのか疑問に思ってしまった。
人類学と称した、ただの視察だったのだろうか。
初期の学者には何が足りなかったのか。
マリノフスキの「長期参与観察」、レヴィ=ストロースの「構造分析」などは一定の成果をおさめ、基礎を築いたとされているが次世代の人類学者からは批判の的となっていることが書かれていた。
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60ページを過ぎると「存在論的転回」という言葉が目に入った。
宮台氏の『崩壊を加速させよ』で言及された言葉であった。
『万引き家族』では一般人が意識しない「法内/法外」における「法外」のほうに焦点をあてた映画だとされる。「法内」にとどまっていれば「法外」のことは一般的に意識されないがゆえに、もはや「法外」という領域は「無いことになっている」かのように認識されてしまう。
しかし万引き家族にとってはむしろ「法外」が全てであり実在する「現実」なのであった。
つまり、人類学初期の頃の西洋人は、自分達が認識できない世界を単に「外」として、「非人間」として勝手にレッテルを貼り付け、片付けてしまっていたのである。
それでも「外」は存在しているのである。
存在論的転回とはまさしくこの「内/外」の二分法を破壊する考え方なのだと改めて思った。
しかし、理論的にはそのように語ることは簡単である。
つづきを読んでこの抽象的な議論を追ってみたい。
(しかし、何故日本の大学には人類学部がないのだ?)
つづく
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