読んだ本
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日記
池田晶子は脳死について「臓器を提供するために作られた概念」だと述べていた。
本書では、ジャヒ・マクマスという少女が脳死判定を受けながらも数年間生き延びた話が紹介されていた。
技術が発達することによってますます生死の境が分からなくなってきている。
生命倫理学者のネア=コリンズは脳死という概念を批判し、次のように述べた。
"「脳死がもたらす問題は明白だ。脳死の基準に合致する患者も、人工呼吸器の助けを受けていれば明らかに生物学的に見て生きている」" P86
ニューロンをめぐっては、さらにややこしいことになっている。
本書では「オルガノイド=ニューロンのかたまり」と研究倫理について問題提起を行っている。
『ホモ・デウス (上)』では、ニューロンが「集合」することによって意識が生まれるということが書かれていた。
つまり、「オルガノイドに意識はあるのか?」という疑問が必然的に生まれる。
そもそもネズミにも意識はあるのか?サルは?イヌは?
奇妙な矛盾のようなものがひとつ判明した。
仮にニューロンが単にかたまっているだけで意識が生まれないのであれば、それは倫理上、オルガノイドをどう扱おうが問題はない。
しかし現代科学では『ホモ・デウス』でハラリ氏が語ったように、ニューロンの集合で意識が生まれるという仮説もある。
素人には分かりかねるが、境界線が曖昧なことは分かった。
昨日は部品主義について触れたが、本書を読む限り、どうやら脳もかなり機能が分担されているようである。
例えば、島皮質と呼ばれる領域が損傷するとコタール症候群(自分は腐敗している、臓器がない等の妄想を抱くようになる)が発症すると書かれている。
『デカルトの誤り』では、ある部位が損傷すると性格が変わった例も紹介された。
しかし意識までは失われていない。
現代の科学力では、脳のどの部位が意識を生み出すかまでは判明していないと思われる。
従って、意識があるかないかの「ゼロ百思考」は明らかにナンセンスである。
これを認めるとやはり「オルガノイド」の研究もどこかで壁にぶつかるのではないか、そのように個人的には思われた。
次に、クマムシの驚くべき性質について書かれていた。
クマムシは完全に水分が失われても、32年後に再び水と適切な温度を与えると息を吹き返したのだという。宇宙空間(=真空状態)に10日間晒しても、その後に水を与えればやはり息を吹き返したのだという。
これをめぐって蘇生派と反蘇生派で論争が起きたみたいだが、結局は蘇生派に軍配が上がったのだそうである。さらに、ハエや細菌など、他にも息を吹き返す生物が存在するのだという。
そうなるとタイトルの「生きているとはどういうことか」は、ますます意味が分からなくなる。
池田晶子は生涯考えつづけ「死は存在しない」と結論付けたそうであるが、この命題は奥が深いように改めて思った。
つづく
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
関連図書