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読書日記960

読んだ本

引用元:版元ドットコム

つづきを読み進めた。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

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日記

 

230項まで読み進めた。ここまできてようやく本書のタイトルである「美と倫理のはざま」の意味が掴めつつある。

結論から書くと、ここまで整理されてきたカントの認識に関する一連の考察は、人間と自然との関わり方を解明する試みであったと言える。

その射程範囲があまりにも広大であるために、例えば哲学者アランに「カントの『判断力批判』を短く要約することは不可能」と言わしめるほどであるのだと思われた。

 

 

その体系からは様々なことが引き出すことができ、そのひとつとして美と倫理の接点を解き明かすヒントがある。それを本書が解説してくれるという具合である。

 

 

物理学的な法則に従って機械的に動いている(ように見える)自然を前に、その法則に抗うことのできる、「負のエントロピー」を食べる有機体としての「人間」はいかにして「自由」であることができるのか。本書を230項まで読み進め、その究明が倫理の究明とも接続し得ることをも示唆するように思われた。

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まず、以前から疑問に思っていた問題が個人的に腑に落ちた。

「えんぴつアート問題」である。

アーティストがえんぴつによって完璧なまでに現実を再現し、それを見た人を魅了する。

しかしそれは模倣としての美であるはずである。平凡な景色を見ても日々見飽きているので感動しないが、なぜえんぴつアートはそこに美を生むことができるのか。

カントの説明によってこの謎が個人的に納得できるかたちで解決した。

結論から書くと、私たちがえんぴつアートに魅了されるのはそのアートではなく「技術」である。

 

 

・技巧によって美

まずカントは技巧(≒美術)について以下のように述べた。

"技巧が美しいと称されるのは、ひとえに、それが技巧であることを私たちが意識していながら、その技巧が私たちにはそれでも自然のように見えるばあいにかぎられる" P164

 

 

ここにほとんどの真理が書かれている。

技巧であることを意識せずにえんぴつアートに感動することは可能かどうか、自身に問えばいいのである。

トートロジーのようになってしまうが、裏を返せば、アートをアートならしめるのはひとえに技巧によってである。

 

 

このカントの発言に論理上の欠陥があるか少し考えた。

「自然」とは何を意味するのか。

えんぴつアートの対象は都市の外観や車といった「人工物」である場合においてもそこに美は生まれる。

ようするに「自然/不自然」かどうかの話であり、対象が自然(=nature)であるかどうかは関係ない。

しかし「では不自然でなければ美しく見えるのか」といった反論が出てくる。

不自然でなくとも、natureにしか「見えない」レベルでなければ美しさは生まれない。

つまり意図的でないこと、かつnatureに見える絵が「美しい」と言える。

 

 

このまま230ページまでの内容の感想を書くと4000文字くらいになりそうなので一旦ここで終わりとする。

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