読んだ本
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日記
書こうと思ったことを一旦忘れてしまったが記事を書こうとしたときに思い出した。
カメラの登場はある意味芸術概念の崩壊の序章だったのだろう。デュシャンの提出した『泉』はその宣言だったのかもしれない。
抽象画というものは画家の内的な観念あるいは概念の集合体としてのイメージを具現化したものだろう。ソクラテスにまで遡れば、芸術は模倣であった。ジラールに言わせれば神に対する模倣であった。
抽象絵画なるものが出た時期は20世紀前半とされているが、その頃は「神は死んだ」とされる、西洋科学の隆盛期であった。
デュシャンの『泉』によって、あらゆる物がアートになり得ることが示唆されたが、だからといってあらゆる物がアートであり得るか。
アートとは何か。そもそも、この問いが「在る」こと自体、それが「模倣」としての芸術の終焉を匂わせているのではないだろうか。
アーサー・ダントーは、「デュシャンの貢献はアート作品から美学を引き算したことにある」と述べている。
(アート)ー(美学)=オブジェクト
この等式を変形させると、
(アート)ー(オブジェクト)=美学
になる。
オブジェクト(=物体)がアートになれば(つまりは『泉』)、
(アート)ー(アート)=美学=0
になる。
現代アートに美学は存在し得るのか。
美学なきアートとはいったい何であるのか。
・・・
法と道徳の違いは明確である。
法は倫理を強制しない。
溺れている人を助けなくとも、その行為に違法性はない。しかし道徳的、倫理的には非難されて然るべき行為であることに異論はない。
ここに明らか相違がある。
では法と正義はどうなのだろうか。
400項まで読み進めると、いよいよこれが『悲の器』の中核的なテーマであるように私には思われた。
法は「必要悪」を許容する(ように見える)。
正義はどうか。自己防衛としての、やむ無き死刑としての「殺人」は許容される(ように見える)。
やむ無き殺人が必要悪であるならば、正義は法であり、法もまた正義であるように見える。
つまるところ、法は正義の表象である。
しかし現実的に、正義には必ず矛盾が生まれる以上(上の例も含む)、その矛盾と向き合うことがまず道徳哲学のひとつの課題であるだろう。
・・・
戦争が世界から消えないのは正義には多様性があるからだという意見もある。
そしてその正義を突き詰めると人間のエゴに還元されていく。
時として正義は「愛」という言葉に置き換わる。
正義とは人間愛、倫理観が基盤となっているように見える節がある。
しかし戦争と平和というテーマに切り込む場合、愛という言葉は曖昧過ぎる。例えば恋愛における愛は厳密には愛とは言いきれず、その本質である「愛欲」とは明確に区別されなければならない。
エゴとはあらゆるものを自己の利へと還元しようとする方向性を持った「欲の総体」である。
詳述するならば、このエゴというものはひとつの論理的帰結から強化される「打算性」、「功利性」を併せ持つ。
ここに、正義が矛盾から脱出できない力学を私は見出している。
『悲の器』の主人公、正木は正義としての「愛」と、「愛欲」としての「愛」が相容れない拝中律であることに苦しんでいる。
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