読んだ本
つづきを読み進めた。
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日記
本書によれば、ショーペンハウアーは「直観の無関心性」こそが「美」をなすと主張を繰り返したとされる。
夢中は努力に勝るとよく言われるが、夢中という経験と「美」が無関係ではないように思われた。
例えば、あまりにも美しい光景や音楽などを目の当たりにすると頭がボーッとする経験が少なくないが、対象に没入することは換言すれば「何らかの関心によってでなく、受動的に与えられる何らかの傾向性によって必然的に向けられる」経験であると思われる。
引力のようなものである。美しさを兼ね備えた「対象」は、対象自らが持つ「傾向性≒重力」のようなものだろうと個人的に思われた。
ショーペンハウアーの言葉を引用する。
「小説家の課題は、大事件を物語ることにあるのではなく、小さな事件に人が関心を寄せるようにすることにある。」
・・・
次にページを進め <趣味・美・善> の考察に入った。
二つの文章を引用する。
"概念が「善いもの」についての判断の普遍妥当性を保証する。ところが趣味判断においてはこうした概念による普遍妥当性の正当化はありえず、ここに趣味判断の独自性がある" P68
"趣味判断はその確証を概念からではなく、他人による賛同から期待する" P71
前にも書いたとおり、「善」は上位の概念である。美は善の全てではないが、美なるものは善である。善を説明するには美と趣味に関する考察が必要となる。それは数学上の問題が算数の知識なしに解くことはできないことに似ている。
今日は趣味に関する考察をじっくり読んだ。
正直なところ、納得できないところもあった。
例えばあるキャラクターが美しいと私は考える。しかし他の人は美しいとは考えないかもしれない。
趣味判断はたしかに主観的である。
しかしキャラクターの「表象(=像、イメージ)」は誰もが「認識可能」であるという点では客観的である。
その表象を「認識」したあとに感性と感情が働くことによって各々「快/不快」(もしくはなんとも思わない( ≒ 中立的))の度合いが決まる。
その「度合い」が一定とならないからそれは趣味と呼ばれるのか。
一定にならないことによって趣味という言葉が規定されるのか。
音楽鑑賞、とくにクラシックの美的価値は普遍的かどうか。
心を動かさなければそれは芸術ではないと言える。それが芸術であるかどうかは権威が決めるのだろうか。否。マルセル・デュシャンの名において作製されるものは全て芸術なのか。そこに落ちている石ころにデュシャンのサインがありさえすればそれは芸術作品なのか。
では、そのサインが代筆だとすればどうなのだろうか。
芸術作品と美的価値に普遍的な法則など有りはしない。
しかし糸のように、いまにも崩れそうなほどに脆く、小さな世界に「美」は隠れているように思える。それをセンサーで関知できるかどうか、これが美的感性ということなのだろうか。
であればその美的感性は何によって規定されるのだろうか。
まだまだ消化不足である。
読書が足りない。実力不足である。
・・・
『事実/価値二分法の崩壊』は150ページまで読み進めた。
こちらは次回以降感想を書きたい。
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