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快楽主義の論理構造を解体

生、意味がないので快楽が全てだ。

という生き方を選択する者は多い。

僕も刹那的に生きていた時期がある。

 

 

しかし、その考え方は論理的にあまり意味をなさないように思われる。

簡単に言えば、5杯目のビールは美味しいですか?である。

詳しく書いていく。

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人生で起こることを単純化する。

A・・快

B・・快でもなく不快でもない

C・・不快

 

 

普通に考えれば、Aが頻発に起こることは珍しい。

快楽主義はAを最大化、最頻化を狙う。

つまり、Aをより強いものとし、Aをより多いものとする。

 

 

 

快楽主義者には、BやCを拒絶するようにもみえる。

そこに論理的欠陥を僕は感じる。

というのも、結局はBやCがAを引き立てるのであって、それ以外にどうやってAを引き立てるのだろうか。

 

 

 

誰かが、人生で経験するAとCの総量を足せば0になると言っていたが、僕はそれに補足したい。

逆説的に、快楽主義者は快楽が減るようにみえる。

それは5杯目のビールに意義を見出せないという直感である。

 

 

また、ABCの反復が虚しいという論理も僕には疑問である。

快楽主義者はBとCを楽しもうという発想がない。

おそらく、病んでいるか、病的にCが怖いのである。

であるので、僕は快楽主義者はずれているようにみえる。

つづく