マクタガートによる時間の非現実性は以下の通りである。
(1a) 時間には、A系列(過去・現在・未来) による記述とB系列(より前・より後) による記述とがある。
(1b) 変化なしには時間はありえない。
(1c) A系列なしに時間はありえない。
(1d) A系列による記述は矛盾を含む。
(1e) A系列は実在しない( (1b) より。)
(1f) 時間は存在しない ( (1b)、(1c)、(1e)、より)。
マクタガートは時間 = 変化だと解釈した。
しかしながら、現実、「今」しかないので、線形上となり、時間の存在を否定した。
僕はこれを見て思った。
時間があるから時計があるのではなく、時計があるから時間があるのではないか、ということを。
先日、熱力学的なお話 (エントロピー) 、確率、統計を絡めて時間について書いた。
とりあえず、時間がないことを前提に考えてみる。
夜と日中の回数を調べることはできる。
おそらく、夜と日中の頻度は1:1である。(現実的な感覚で)
それをグラフにする。すると波があることがわかるだろう。
夜→日中→夜→日中
夜→日中を1つの単位とすれば、そこで1日、という概念を作り上げることができる。
それを統計に当てはめて考えれば、等しい感覚で1日は繰り返されるとわかるだろう。
今しかない。それは確実だとしても、データを集めることは可能である。
細分化していくと、1時間、1分、1秒と作ることができるのは至極当たり前ではないだろうか。
たとえそれが「時間ではない」と言いたいとしても。
彼の理論は少し偏ってないだろうか。何か間違っているのではないか。
時間はただ人間が勝手につくり出したものではないだろうか。
統計という概念が時間を作り出す。