『今を生きるための仏教100語』を読みました
そこで気になったことがあります↓↓↓↓
仏教の発祥はインドの釈迦ですが、現在インドにおける仏教徒の割合は人口の1%未満です。これどういうことなんですか。
インドについてはさっぱりわかりませんが、まあ歴史があるので、いろいろあったんでしょう。暇なときに調べようと思います。
そして話はタイトルのほうへチェンジします。
『アウトバーン』という映画のセリフに「イエスかノーか」があったのを思い出しました。一応英文科を卒業していますので、欧米の文化は少し理解しているつもりですが、確かに、欧米は曖昧を嫌います。(特に文章)
知識が浅く、根拠も僅かな今の時点で僕にはこれを論じることはできませんが、共感はしました。「お前はどっちだ?オレかあいつの味方か?ハッキリしろ!」なんて言われたらケンカが止みませんよね。ちょっと前に読んだ『シンプル・プラン』にも「オレを信じてくれ頼む、あいつは敵なんだ」といった言動がありました。
そして、大学時代の教授の言葉をいまだに覚えています。「許すことを覚えろ。許すことができないと駄目だ」と。
僕は新入社員の頃先輩とケンカしてしまいました。
ガールズバーに誘われました。「先輩、オレ2万しか出せないっす」「大丈夫だから」
しかし大丈夫じゃありませんでした。先輩は酔っ払い、僕の会計は4万5千。しかも「お前が悪い」と言われ、血気盛んな僕はキレました。ケンカ勃発。その頃は夜明けで、途中警察に見つかり、制止されました。
「絶対ゆるさねー、お前はやっちゃいけないことをした」と先輩が最後にそういって別れました。以後職場で気まずい雰囲気に。友情愛情は吹っ飛び、全てが消え去りました。
しかし僕は今でも反省していないのです。キレて当然です。と思っている時点で、僕は寛容ではないのです。
問題は何だろう。いや、問題などないのです。個人としては。
男には譲れない価値観があるものです。許せないものは許せない。
仏教、キリスト教、関係なく、男にはそういう性質があるんじゃないかと思います。
男とパッションはガッチリ癒着している。そう思います。
なので、本当はいけないことなのですが、戦争もマクロでみると「ゆるさねー」vs「ゆるさねー」の話で、寛容を手にしない限り終わらない、いわば男のパッションを捨てないと永久に終わらないのだと思いました。しかし男からパッションを抜き取ったら魂のない腑抜けな存在になってしまうのです。それもどうかなと思うところで、戦争という大きな話になると非常に難しいところだと思いました。
ということで、何が言いたいのかわからない感想になりましたが、
男はこういうもんでござい、という話でした。
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