読んだ本
つづきを読み進めた。
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日記
『彼女は頭が悪いから』は150ページほど読んだが、ありふれた学生の物語のように感じる。
登場人物が増えてきてなかなか頭に入らないが、極端な考えをもった人などおらず、ごく普通の日常のなかで刻一刻と事件に近づいてく。なんとなく嫌な予感がする。
「気づいたら何故かこうなった」のような、集団心理的に悪い方向へ行きそうな気がしてならない。
明日か明後日には読み終わりそうなのでその際に思ったこと全てを書きたい。
・・・
『ベンサムの言語論』を70ページまで読み進めた。面白いので、個人的には読みやすいように感じた。著者の文章力のおかげかもしれない。
ベンサムは認識の成立と発展にはフィクションの存在が欠かせないと書いていたことについては前回触れた。
また、ベンサムは経験主義的であり還元主義的であることは読書日記1190に書いた。
概念は実体を伴わないが、「義務」といった概念はパラフラシス(読書日記1191で触れた)で分類すると知覚(苦痛あるいは快楽)に還元される概念だと分かり、フィクションの意味を有するとされた。
何故この分類の話から本書の論考が進むのか、今日少しずつクリアになりつつあった。
ベンサムが考える人間の行動原理は全て「快楽」と「苦痛」と関係している。
つまり、あらゆる概念を細分化すれば必ずこの「快楽」か「苦痛」に還元される。
ベンサムが経験主義的で還元主義的であるというのは、読者からしてみればここで幾分なっとくがいく。
"快苦の存在なしに(あるいは快苦の存在とは独立に)、「知覚能力」や「欲求能力」というものがそれ自体として存在しうるわけではないのだ。" P61
これを言い換えれば、知覚能力と欲求能力には必ず快楽か苦痛が関係している、ということになる。
"すべての心理学的実体のうち快楽と苦痛のみが「現実的実体であり、それ以外はフィクション的実体である」と考えていたベンサムにとって、「快楽」と「苦痛」以外のいかなる心理学的概念も、それが快苦との間に有する関係性が明示されないかぎりその意味は決して理解可能なものにならないと考えられていた。" P63
最大多数の最大幸福というものは、言語上の問題を突き詰めた帰結として生まれた考えなのではないか、と自分には思われた。よって「功利主義=最大多数の最大幸福」と安易に暗記することはナンセンスなのだと自分は反省した。
言語上の問題を整理したあとにこの考えは生まれたのかもしれない。
ベンサムは言語を道具とみなした。それは全て自分の利益のために使用されるからであると前回までに明らかになった。
しかし今日読んだ箇所によれば、ベンサムの考えは完全に「利己主義」的ではないとされる。
というのも、ベンサムは人間の動機として作用しうる快楽を14種類に分けたが、そのなかには「共感の快楽」があり、これは「他人の幸福は自分の幸福」という、人間的な考えがあるからだとされる。
この点において、性格が曲がった、ある種の性悪説的な「他人の幸福は自分の不幸、他人の不幸は自分の幸福」とは異なる。
とはいえ残りの13種類はほぼほぼ利己主義的だと思われる。
マーク・トウェイン『人間とは何か』の老人は、全ての行為は自分のためだと最後まで主張していたが、読んでいてベンサムと似ていると感じた。
もうひとつの点でベンサムの発想は利己主義と異なるとされる。
本書によれば、ベンサムはホモ・エコノミクス(人間の行動原理は合理的でつねに利益の最大化に従うという説)の考えとは違うとされる。
ベンサムは、時に人間は不合理に苛まれる存在であると認めていたと書かれていた。
現代の科学では、そもそも人間は合理的な意志決定はできないという説もあるので、今日抱いたベンサムの印象としては、洗練された、現実的かつ洞察力のある人物に見えた。
つづく
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関連図書
性善説を支持するルトガー・ブレグマンによる『human kind 希望の歴史』
善と悪について人類史的な側面及び進化論から考察された本