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日記
今日も仕事を終えたあとは『ポール・ヴァレリー1871-1945』のつづきを読み進めた。
160項まで読み終え、ヴァレリーの学生時代に関する記述は概ね完結した。
ヴァレリーの独創性は神秘主義的思想や、数学と哲学と融合させた、ミクロの世界とマクロの世界を統一しようとする壮大な宇宙観にその源泉があるように思われた。
ヴァレリーは詩のなかに、この世界を記述し得る可能性をランボーやマラルメ、ボードレールなどの偉大な詩人の作品によって感じ取ったと書かれていた。
ミルトン『失楽園』に関してはまだ言及されていないが(160項までは)、執行草舟氏がいうには、『失楽園』にも世界の全体を表象する詩として読めるようである。
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自身の経験からも、学生時代ほど多感な時期はないように思う。
100項から160項までを読むと、希望と絶望、秩序と混乱が多く入り乱れている様子が伝わってきた。
二十歳のヴァレリーの読書観は、124項に書かれている。
"彼が本を読むとしたら、それは自分が生きるうえでの助けになるからであり、自分を人間として詩人として樹立するものが何なのかを知るためなのである。彼にとっての読書は、喜びを得たり、好奇心を満たすためのものではない。一冊の本は彼を客観化し、彼を存在せしめるのだ。" P124-125(『ポール・ヴァレリー1871-1945』)
ランボーの本以外一切読まない時もあれば、気分が変わり別の本を読む時期もあるといった、非常に波のある学生生活を送っている様子が伝わった。
ロイスブルーク、聖ベルナール、プロチノス、ハーネー・ウロンスキーの『メシア思想』などの本を読んでいたと書かれていた。
哲学、文学、神学などを縦横無尽に読んでいたことがわかる。
また、科学書にも手を出すようになったとも書かれていた。
数学や物理学などの書物はヴァレリーの宇宙観を形成するうえでかなり影響力をもった個人的には思われた。
また、様々な仲間と交流し、日々切磋琢磨している様子も伝わった。
アンドレ・ジッド、ステファーヌ・マラルメなどの偉大な人物との交流もあり、日々刺激的な毎日を送っていただろうと思われた。
絶望や苦しみ、将来への不安も強かっただろうが、ヴァレリーは自殺には抵抗力があったと書かれていた。それは美的な感動体験に溢れていたからという内容であったが、ここが印象的であった。
160項以降は社会人としてのヴァレリーの様子が描かれていく。
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アランの定義する「価値」について読んだ。
アランがいうには、価値は「勇気」に集約されるのだという。
ソクラテスは無謀と勇気を区別し、後者には知、すなわち徳が備わっていると述べた。
「あらゆる徳は価値である」とアランが書いていたが、今日の自分は目的論と関連付けて読んでみた。
「美しい人」という例を考えた。
まず外見的な美しさと内面的な美しさを区別する。
後者は、例えばマザー・テレサやナイチンゲールのような人物が想起される。
カントは美と倫理の類似性を示唆した。
ある目的にのみ沿って行動すること、これが「合目的」的な生き方であれば、それは「美」が持つ合目的性と近似する。
何をもって「合目的」的な生き方と言えるか、それが「倫理が求める生き方」であれば、マザー・テレサやナイチンゲールなどの人物について何が言えるか。
倫理的に生きるにはどの程度の徳が要請されるだろうか。
マザー・テレサには自己を犠牲にしてでも目的を遂行する「勇気」があったと言えないだろうか。
細かい判定はできないが、この文脈の意味では両者とも高い「徳」を有していると言えないだろうか。
合目的的という点では両者とも徳を備え、ゆえに美しくもある。
外見としての美の有用性や価値、趣味判断についてはまだまだ考察が足りないので次回以降考えていきたい。
ひとまず今日は久々に読書をした感覚があり、充実した一日であったように思う。
今後もアランの本は定期的に読んでいきたい。
つづく
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