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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1089

読んだ本

トーマス・ベルンハルト『新装版 消去』みすず書房 (2016)

岡部美香/小野文生『教育学のパトス論的転回』東京大学出版会 (2021)

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日記

 

今日も時間をかけて『消去』をじっくり読んだ。

160項までたどりついた。ようやく1/3は読めたといったところであった。

ひとつのテーマとして、本書は精神的な生き方とは何かという、人間の精神に焦点を当てられているように感じた。

 

 

 

途中、ナチスについての言及があった。

主人公が忌み嫌う「日和見主義」者である主人公の両親は、政治的なことに対して深い意見を持たず、熱狂に感染してしまったかのように熱烈にナチスを支持してしまう。

そのことについて、精神的に生きた叔父が主人公の父親に言及した際、父親はぶちギレて皿を投げたというエピソードが語られた。これが今日の印象的なシーンであった。

 

・・・

 

 

自分が教育学に関心があるのは「人間とは何か」というテーマを文学と分け持っている点にある。

「人間とは何か」という問いなしには「どう生きるべきか」という問いには発展できない。

今日はパラパラとめくりながら、理性の限界に焦点を当てた章が気になり読んだ。

 

 

読んでいてひとつ気づかされた点があった。

「人間とは何か」という問いかけに対して安易に定義をすることには慎重にならなければならない。

本書に言及されているように、人間が何らかの条件を満たしていなければならないと決めると自動的に境界線が生まれ、満たせていない側の人間に差別を助長することになるからである。これは歴史的に幾度も繰り返されている。

定義をすることはある側面、暴力的でもある。

ジュディス・バトラーが着目した点はここにあったと記憶している。

 

 

理性偏重の主知主義に陥ると『啓蒙の弁証法』に書かれているように啓蒙は神話へと退化してしまう。

理性の在り方について、190項の説明が印象に残ったのでメモを残しておきたい。

 

 

"では、理性が見い出した世界と自己の存在の根拠ーーあるいは、理性がでっち上げた仮構の物語ーーの妥当性を、人間が理に適う仕方で/合理的に吟味するにはどうしたらよいのか。カントに則すなら、この吟味に必要なのは、吟味するべきことがらについてまったく知らないわけではないが、かといって十分に知っているわけでもないと自覚し表明するソクラテス的な態度だという(Kant 1954: 14-16/カント、二○一三、二三ー二六項)。坂部恵に則すなら、それは、自らの生のあり様を理に適う仕方で/合理的に統整し形づくるために自らの「ぎりぎりの信念」を示しつつも、その信念の物語を絶対的な根拠=理性(ratio)を用いて正当化することもなく、それが偏っているかもしれないという可能性をつねに留保し、偏ることがないよう警戒する態度である。換言するならば、自分こそが偏っているかもしれないと自戒し、自分とは異なる他者の視点から、自らの生のあり様とそのあり様を妥当なものとして考えている根拠=理性(ratio)とをいま一度、省察的に問うてみるという態度である(坂部、二○○二、一○五項、一一三項)。" P190

 

 

自分の意見が間違っていると常に頭の片隅に入れ、常に他者目線で考える。

言っていることは単純だが、実は誰もができていないのではないだろうか。

本屋に行けば、何かについて断言してしまう内容のものが少なくないが、判断の保留を忘れないようにしたい。

 

つづく

 

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関連図書

 

プラトン『国家』

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