以下の続き。
僕は「お金」という概念に「希少性」という概念が入り込んでいる可能性について書いた。再考する。
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なんでも鑑定団という番組がある。
家にあった骨董品が数百万円に化ける。
本人はびっくりする。何を意味するか。
本人は価値に気づいていない可能性がある、ということである。
専門家による「権威付け」があって初めて骨董品に「価値」が与えられるように見える。
希少性について考える。
希少性は初めからあったのか、与えられたもの (権威付けという意味において) なのか。
「魅力」と「ブランディング」からヒントを引き出したい。
まず、希少性と魅力にはあまり関係がないように見える。
ディズニーランドには魅力がたっぷりあるものの、そこは「万人に開かれた場所であり、チケットも1万円弱である。「チケット」の希少性はないように見える。
一方で、よくわからないアーティストのよくわからない絵が1億円で売られていたりする。
これに魅力を感じない人は少なくない。
以上から、魅力と希少性の関係はあまりなく、両者を結びつける「概念」のようなものが存在すると考えられる。
また権威付けに戻りたい。
「価値を感じる人がもともといるから、専門家が権威付けしたとは言えない。」とも考えられる。
ここで前の前の記事で書いた、
「希少性とは差し出さない意思を崩すもの」が適応できると考えられる。
つまりは、価値を感じる人間にとっては、100万円渡されようが、骨董品を差し出さない可能性がある。
専門家は、もしかしたらその人間がいることを認め、対象物(例に則せば骨董品。)が本物かどうかの確認作業を通した上で、
「権威付け」 = 「価値への承認」
をしているように見える。
承認された価値が「希少性」になる。
ブランディングによって「希少性」は作られるのだろうか。
今までの順序を辿れば、
「差し出さない人間がいる」⇒「専門家による価値の承認」⇒「価値の発生」⇒「希少性」
となるが、
ブランディングは、
「付加価値の創造」⇒「希少性」
の順番であるように見える。
つまりは、
「価値が先行」しているように見える。
これはおかしい。
この記事の仮説がある程度正しければ、
そもそも、
「差し出さない人間」がいることが先だからである。
僕は、前の記事で、エントロピーと絡め、
「理性は自然的」「希少性は不自然的」
と書いた。
ブランディングによる「希少性」はやはり「不自然」であると考えられる。
つづく