読んだ本
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メモ
なし
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日記
本書を読んで多くのことを引き出すことができた。
本書によれば、アドルノは常に自身の思考を「部分と全体の関係」に定位していたと書いてある。
アドルノは「システムが正しくないのであれば、正しい人生を送ることはできない」と『ミニマ・モラリア』のなかで書いている。
いうまでもなく、ホロコーストを生み出した全体主義は「誤ったシステム」ということになる。
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部分と全体に着目したのはアドルノだけではない。
レヴィナス『全体性と無限』の考えの根底には、西洋哲学史における「他者論」(つまり自己を突き詰めれば他者についても理解できるという考え方) との「決別 (=無限の他者という考えによって従来の他者論と断絶)」にあったことは最近になってようやく知った。
レヴィナスもそのひとりである。
部分の総和が全体であるならば、すなわち「フラクタル構造」であることは何を意味するのか。
これは言い換えると、「部分が真であると前提すること」である。
抽象的なので分かりやすいように以下の説明を加える。
世の中には基本問題と応用問題がある。
いうまでもなく、応用問題は基本問題ができることを前提とする。
従って、応用とは「基本が真であること」を暗黙のうちに「前提」しているのである。
・・・
このように考えていくと、くどい言い方をすれば、「応用するものは、応用されるものを真とする」という論理構造が見出される。
つまり、「基本⇒応用」というこの流れは、「部分⇒全体」と重なる。
ある楽曲の「部分」は「音符」であったり、「フレーズ」であったりする。
しかし、ひとつのフレーズは部分であり、全体とはなり得ない。
音楽にゲシュタルト効果が生まれるのはフラクタル構造でない為、ということからも納得がいく。
この考え方が様々な分野に応用可能であると分かったとき、好奇心が加速した。
正義、倫理、美。
この3つがいかにして異なるのか。
ひとつは「基本⇒応用」という流れが存在しているのか、
もうひとつとしては「部分⇒全体」の構造があるのか。
例えば倫理 (≒道徳) は、「一般に承認されている規範の総体」であるからフラクタル構造であるはずだ。
この点において倫理は「美」と異なると思われるのである。
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