池田晶子『41歳からの哲学』のつづきを読む。
思うに、この方の本は100年後も確実に残る。
この方の本は現代の古典である。
その証拠として、まずこのかたは90年代から2000年前半にかけて文筆家として活動をしていた方である。
すでに20年以上が経っている。
にもかからわらず、大型書店の哲学コーナーに行けばこの方の本が確実に置いてある。
そして、本書のなかで「古典と同じような動き方をしている」と書店員に言われたエピソードが語られている。
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プラトンの著書をだいたい読み終えてから一段と理解が深まり、ますます魅了されていく。
反対に、池田氏の読書体験をきっかけに私が見切った作家も多数いる。
知識人と言われている人間にも似非はいる。これは間違いない。
「私は脳である」という言明において、では脳が私であるならば、他人の脳が私ではない理由をどう説明できるのだろうか。
端的にこの問題は科学の扱える範囲ではないと感じる。
「運動は脳に良い」と脳が言っているならば、なんと奇妙なことだろうか。
しかしながら、池田氏は脳科学を全否定しているわけではないところにやはり知性を感じる。
遺伝子が人生を決めるといって諦めることは愚かだ。
環境が人生を決めるも然り。
そんなふうに思っている暇があったらニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』を読む。
私はそういう人間でありたいと思った。
つづく