読んだ本
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メモ
クッツェー「愛や政治は見かけ通りであったためしがない」
ポール・オースター「現実世界でもフィクションに似たようなことが起こるということだ。そしてもしフィクションが現実になるのなら、僕らは現実の定義を考え直す必要があるのかもしれない」
小林秀雄「僕は不幸にして抜群の資質などというものを持って生まれなかったら、学ばずして得るという天才的快楽を嘗て経験した覚えはない。だから何でも学んで得べしという主義である。自惚れだって手をつかねて生ずるものではない。自惚れだって学んで得るのだ。絶望するのにも才能を要し、その才能も学んで得なくてはならぬとさえ考えている。」
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日記
ポール・オースターとクッツェーの対話は刺激的なものであった。
最初は当たり障りのない話が進んでいくが、徐々に深い話へと展開されていく。
スポーツ観戦について話が移ると、スポーツと定量化の関係について掘り下げられていく。
例えば野球にはボールとバットが欠かせない。
たしかポール・オースターが語り始めた気がするのだが、野球のような遊びは太古にもあったのではないかと想像力を働かせた。
それは石を投げて棒で防御する遊びだっただろうと推測した。
近代化によって科学が進み、何事も定量化が進んだ。
野球にはプレートからホームベースまでの距離などが細かく数字で規定されている。
この書簡が交わされていたときにリーマンショックが起きた。
スポーツの定量的な話はこの出来事がきっかけとされるように見えた。
数字への崇拝というものがどれだけ人間社会の文化に影響を与えているかという考察は読んでいて面白いものがあった。
カネはフィクションだ。という言葉は印象的であった。
フィクションによって現実が歪められた例は枚挙に暇がない。(毛沢東が招いた大飢饉など)
虚構として成立している経済のなかで、小説もまた虚構でありつづけている。
小説は虚構である。カネは虚構である。あれは虚構、これも虚構。
虚構のなかで光り続けるものとはいかに。
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