読んだ本
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メモ
"人生をかたちづくるのは、公式の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないか。" P21 (レベッカ・ソルニット『ウォークス:歩くことの精神史』)
サルトル「人間はかくあろうと意図したものになるのではない。かくあろうと投企したものになるのだ」
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日記
自分はこのブログで何回か努力や目的の無意味性について思考し、アウトプットしてきた。狭義での目標設定の意義については否定しない。しかしもっと視野を広げ、人生という超長期マラソンという場においてはやはり無意味だと思えてならない。
確立すべきは目標ではなく、その目標というものを主体的に設定する意志や自律性というものが先になければならない。
もっと細かいことを言えばその意志や自律性を確固たるものにするには徳を備えなければならない。
例えばソクラテスは勇気と大胆さを整理したが、後者には思慮がない。思慮がないというのは、情報や知識が足りないということであり、その状態で生み出される目標、目的というものは前者の徳を備えた勇気ある人格者にとっては質が低いものとして見えるかもしれない。
安易に大胆な目標を設定しても失敗する人間が多いのはこの理によるのではないかと自分は考えている。
とはいえ、人間という存在は非常に多様な面を見せるもので、必ず例外がいることは否定しない。(そしてそれを天才という)
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自分は、ギフテッドというものは存在しないのではないかと考えている。
天才はいるが、「ギフテッド=天才」とは思えないのである。IQというものは変動性のあるものであって、訓練次第では上昇すると思っている。つまり固定されたパラメーターではなく可変的なものである。人は偉大な人物を「才能があったから」として自分のことを棚にあげたがるものだ。自分も10代の頃は常にそう思っていた。しかし経験を積み、様々な本を読んでいくうちにそうとは思えなくなってきたのである。
きっかけは、白水社から出ている『ロダン 天才のかたち』との出会いであった。
ロダンは30代になっても認められず、苦労を重ねた人物であった。
晩年の頃になると才能を認められたが、ロダンの芸術に対する向き合いかたから学ぶべきことは多い。
自分が知っている範囲ではマネ、ゴッホも認められないまま亡くなってしまった人物であった。
『カフェから時代は創られる』は非常に刺激的な本であった。
いまではカフェという場が開かれた議論の場としての機能を持たなくなってしまっているように思うが、それでも公共空間のなかの異質性は保たれている。
「カフェに行くためにカフェに行く」というトートロジーが意味として生きる。
つまり、必ずしも「コーヒーを飲むためにカフェに行く」ではないのである。
著者は言う。
"カフェという場は他の公共的な施設と異なり、合目的性がほとんど追求されない不思議な空間なのである。" P108
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加えて、自分はルイ・アラゴンというフランスの小説家の言葉が気に入った。
"書くのは他人たちのために考えを定着するというより、むしろ自分のためにあれこれの事柄を定着するためなんだ。あれこれの秘密を。" P62
書くことによって質の高いアウトプットができるという経験は、去年の太宰治賞に応募したときに実感した。
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やはり「カフェに行くためにカフェに行く」というトートロジーは面白い。
合目的性とはその論理形式のなかに、必然的にトートロジーを許容するということなのだろうか。
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関連図書
合目的性に関する本