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不可避的に承認を社会に要請する努力の性質について

力という言葉について以前考察し、結論を出した訳ですが、ここ最近思うことを書いてアップデートをしたいと思います。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

というのも、昨日の適性検査に「つねに目標を達成してきた」という質問項目があり、「そう思う」とも思えず、「そう思わない」とも思えなかったからです。

まず、一般的な見解として「努力する=頑張る」というのは当てはまるかと思います。

辞典で調べると、努力は「労する、苦労する」という意味になっています。

 

 

つまり、仮に目標というものが「努力」を必要とする場合 (一般的見解に照らし合わせれば、そもそも努力なしに達成できる目標があるとは思いませんが )、目標には「労する、苦労する」ことが求められる帰結になります。

ここまでは論理的みちすじを辿って書いております。

以下が私見です。

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目標を達成するには努力しなければならない。

目標を達成するには頑張らなければならない。

 

 

僕はどうしても違和感を感じます。

「承認」という概念が隠れているように思うのです。

つまり、他者の視線が入り込むわけです。

 

 

「それは目標とは言えない」

「それは努力とは言えない」

こんなセリフ、日本中の家庭なり学校で必ず誰かが言っていることです。

 

 

承認はもはや不可避だと思うわけです。

ご飯を食べれば口まわりが必ず汚れるのと同じように、必然的に承認というものが纏わりつくように思えるのです。

 

 

承認が必要な目標なんていらない。

承認が必要な努力なんていらない。

なぜならば、いつも目標に届かない子供たちが一定数世の中にはいて、彼らが「努力は報われない」と決めつけてしまう状況が現にあるからです。

これって不合理だと思いませんか。

 

 

イェール大学助教授の成田氏が、将来「変人」でいるほうがうまくいくかもしれないと言っておりましたが、要するに今「承認」されていないことに熱中しても良いのではないか、という見方もできると思うのです。

成田氏の提言は、この不寛容で能力主義が浸透しつつある辛い世の中をうまく生き抜くヒントであるように見えるのです。

 

つづく