読んだ本
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メモ
"可能なもの、正当なもの、近いものを夢見る人のほうが、遠くのものや奇妙なものを夢見て身を滅ぼす人よりも哀れだ、と私は思う、大いなる夢を見たり、気が狂っていたりするならば、自分の夢を信じることができて幸せだし、ただの夢想家にとっては、夢想は無言で彼を揺する塊の音楽だ。ところが、可能なものを夢見る場合は、ほんとうの失望を味わうおそれがある。ローマ皇帝でなかったことを私はそんなに深く残念がることはできないが、いつも九時ごろ右の通りへ入ってゆく可愛いお針子に一度も声をかけなかったことは痛恨することができる。不可能なことを約束する夢は、もともと私たちの手の届かないところにあるが、可能なものを約束する夢は、人生のなかに介入し、その解決を人生に委せる。一方はまったく独立しており、他のものを排除し、もう一方は外部の出来事の偶然性に従属している。" P115-116 『不穏の書、断章』
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日記
『文学のプログラム』に、小林秀雄と坂口安吾が戦争に美的なもの、崇高なものを感じていた趣旨のことが書かれていた。
"小林秀雄は、太平洋戦争の口火を切る奇襲攻撃の光景に美を洞察した。その美しさにおいてこの戦争を平和として肯定した。ふやけきったどんな平和よりもこの美しい戦争こそ平和ではないか、と。" P70
理解に苦しんだが、死が当たり前として、いつ誰がどこで死んでもまったく不思議ではない時代の感覚を鑑みればそのように映ったのかもしれないという理解にとどめておいた。
例えば薬や手術という医療の概念がない太古を思えば、戦争が明日から始まろうと、そもそも生きること自体が全てのなかにおいては、戦争という現象を現代人は明らかに彼らと違った認識でいるのかもしれない。
しかし、戦争を美として自分は捉えることを拒絶する。
つまり、美としての戦争は普遍的ではないはずだ。
戦争が美と感じる時代の「美しい文章=純文学」と、現代人が感じる「美しい文章」というものはおそらくかけ離れている。
それが、現代には純文学がないと一部の人に言われる所以なのか?
・・・
『フッサール 志向性の哲学』は、「対象」とはなにか?それはいかにして認識されるのか?といった、思想に興味がない人であれば100%下らないと思われるであろう問いで始まる。
人は現実には無いものを想像することができる。
「未来の花嫁について妄想している」と言えば、やはり無いものについて考えていることになる。
これが掘り下げられると意味論とつながっていく。
実体と言語はいかにしてリンクしているか?
ベンサムの考えたような虚構に関する考察が始まる。
今はどうでもいいが、少しだけ考えた。
『ホモサピエンス』を要約したものを読んだが、人間は虚構を生み出す力によって食物連鎖の頂点に立ったのだという。
ただ、嘘をつくことは人間以外の動物にも可能である。
死んだふりをする動物がいる。
騙すことと嘘をつくことはほぼほぼ同じである。
ないことをあったかのように見せる。
死んではいないが、死んだかのように見せる。
この延長が「小説」でもある。
なかったことをあったかのように伝えることができる。
虚構も嘘の延長線上にあると考えれば、人間だけの専売特許だとも思えない。
言語と意味について考えたら永遠に終わらないが、人間だけのものとは思わないほうが良さそうである。
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関連図書