『ヴァレリー集成Ⅲ<詩学>の探求』(筑摩書房)を読みながら僕は考える。
ヴァレリーによると、詩というものはただただ精神の行為であるという。
詩というものは言葉、すなわち人間の内部から紡ぎ出される精神の連続体であるべきだという。
ヴァレリーはいう、詩というものは時に読者がまるで詩人になったかのような感動を与えると。
ここで僕は「想起」という概念について思いを巡らす。
ソクラテスは『プロタゴラス』において、「徳を教えることは可能か」という問いに、知識とは想起であることを対話のなかから導き出す。
想起。
想起とは既に「在る」ものが現前することだ。
これをアナロジーで考えてみる。
感情も「想起」ではないだろうか。
つまり「0⇒1」ではないということになろう。
池田晶子は一貫してこう言う。
「無いもは無い」
池田氏は一人称の死について考え抜いた果てに「無い」とし、「無いものは無い」、故に一人称の死は存在しないとした。
話を戻す。
感情は想起されるものであるという説はわりと正しいように思う。
ヴァレリーの言葉は示唆に富む。
感動は与える、与えられる、という二項対立ではないような気もする。
共鳴のようなものだ。
つまり、鳴る⇒鳴る。二項対立ではない。
詩学も奥が深いと感じるおやつのお時間であった。
つづく