僕はこの記事で美に関する逆説を示したい。
視覚は五感による知覚のなかで最も情報量が多く、少なく見積もっても80%はあるとのことである。ちなみに聴覚は約10%とされる。
ではいったい、どうして情報量の少ない聴覚、すなわり「音楽」が一般的に芸術においては人に感動を与える威力が大きいのだろうか。
これを僕は勝手ながら「美のパラドックス」と呼びたい。
読書も視覚がほとんどである。
読み聞かせの場合は聴覚も入り込むが、ここではほぼ読書と同じと見なせるだろう。
必死に歌っている姿は美しいが、その歌声が素人、あるいはもっとひどい場合においてはむしろ哀れみの対象となってしまう。
感動に先行するものは言うまでもなく「美」であることは否定できないように思われる。
そして一般的に絵は音楽には勝てないという文句がある。(あくまで「感動」に重きを置く場合において)
つまりはどういうことだろうか。
感動という現象には「情報」という変数が入り込む余地がないということなのだろうか。
であるならば、どんな要素が「感動」を生成するのだろうか。
感動も「想起」の一種であるならば、それは「共鳴」に近い。
感動を与える音楽には抑揚が大事だと思われる。
棒読みのような音楽、演劇はドライである。
こう考えていくと、やはり感動も「波」のような性質を持つのではないかと僕は思うのである。
ただ、感動は「美」のなかの一種のようなものであると思われるので感動がそのまま美を説明するとは言えない。
さらに加えれば、感動には「価値」が付随する。
価値の多面性。
美と情報。
感動と情報。
価値と情報。
情報の美。
感動の美。
美の価値。価値の美。
芸術というものをもっと多角的に考えたい。
つづく