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美の対象と内的な無意味感について

こちらのつづき

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

 

また、僕が感じる逆説、「意味を持たせると無意味になり、無意味であれば意味を持つ」ことの例を具体的に書いてみたいと思う。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

例えば、絵の対象は「自然」であることが多い。

デカルトは「主体」と「客体」を分けた。

それはつまり、自然界に存在しているものと、意識を持った内的な自分、つまり「外」と「内」で分けてから自然を観察し、学問を体系付けた。

古典物理学は、「分ける」ことで切り開かれたとされる。

参考文献:モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』文藝春秋 2019年

 

 

僕は思うに、そんな物理学は現象を因果律に基づいて説明するものの、「意味」までは説明しない。

つまりは、科学の想定する世界は、自然というものには基本的に意味はなく、ただ秩序に従って相互作用する世界という認識が前提になっていると考えられる。

 

 

そこで哲学者が認識論などを持ち出して難癖をつけたりする。

僕は、芸術もそのような運動に似ていて、ある意味では作品は「価値」であり「意味」であり世界の「解釈」である。

本題に入る。

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つまり、この文脈に沿って意見を述べるならば、芸術の対象、美の対象は基本的に「無意味」であることになる。

 

常識に沿って言えば、物や自然にはハッキリした意識はないだろうし、意志もない。

石ころに意識があると考えている人はもう一度デカルトニュートンの考え方を復習するべきである。

 

 

しかし、人間が芸術を通してそれらに意味付けがなされていくように僕は見える。

つまりは、逆説的に「無意味⇒意味」になった例だ。

ここまでで、タイトルの回収としたい。

つづく