養老孟司氏は、
「自分探しはムダ」といった。
それは、細胞レベルで日々人は変わっていくので、不変性のない自己に「個性」はないから、という理由であった。
ここまでは養老氏の考え方。
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以下は僕の考え方。
就活における「自己分析」は、「相対的な」自己分析である。
理由は以下の通り。
・他人と比べて何が得意だったか
・他人と比べて何を多くしてきたか
・他人と違うところは何か
要するに、差別化としての「売り」である。
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ほぼ100パーセント、「自分探し」は「相対的」である。
つまりは、自分を他者と「区別」するということ。
さかなクンが「個性的」と言われてしまう悲しい現実がある。
それは、彼が「誰よりもさかなに詳しい」という点においてのみである。
「個性的」とはどこまでも「相対的」な話である。
例:個性的な髪型⇒相対的にそのような髪型をする人間が少ないから。
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そもそも、「自己」は「他者」と切り離せない。
言語は「他者」がいることで初めて成り立つし、「社会」によって道徳付けられ、「教育」を通して世の中の価値観などを吸収していく。
個性とは「相対的に」、何に「重き」を置いているか、それだけの話にすぎない。
何かに重きを置いていることを自覚せずに「自分探し」は無意味である。
その点は養老氏も僕も、最後には一致した。
つづく