夜の静寂を切り裂くように、すべての音が一音半、低く響きだした。
書斎のフルートから漏れる滴る音さえも、一瞬にして♭6へと転じ、金属質で不安を孕んだゆらぎを帯びている。
わたしはショーペンハウアー。ここしばらく音楽は“意志そのもの”と考えていた――だが今、音楽はその意志から逸脱し、歪む。
「音楽は、他の芸術とは異なり、“意志”そのものが直接に響く純粋な表現である」
「音楽は、本質であり、世界の<意志>を鏡のように映す」と彼自身の言葉にもある(“Music is the melody whose text is the world”)
彼は録音セットを机に並べ、世界の音を細かく分解しようと試みる――まるで複雑な波形をフーリエ変換して、隠された周波数を解明するかのように。
「この♭6への転調は、まるで音の本質が一列に並び変わるかのようだ…」と彼は呟く。
分析を続けるうちに、頭痛が重く、視界がゆらぎ始める。
書斎の暗がりで、秒針の進みがとても緩慢に見える彼。その精神は理論で正すことができず、身体はまるで♭6化された調波に共鳴するかのように震えている:
「音の分析が、『意志』に達するはずだったのに――それは理性ではなく、この身体の奥底から反響している。
そして、その反響が痛みとなって私を締めつけるのだ。」
書斎にはまだ♭6の響きがこだまし、彼の分析スペクトルには低音帯が明瞭に浮かび上がる――まるでフーリエ解析で異常なピークを検知するかのようだ。
だが、理性の錨(いかり)は深く、彼の身体はその重みに耐えられなくなっていた。
「理性的分析は、音の構造には迫れるが――その響きを感じることはできない。
いや、感じているはずなのに、身体が拒絶する…」
この矛盾が彼を、思考の海から揺り戻し、身体という「意志の器」へと誘う。
次の朝、公園の音が耳に飛び込む。そこでは学生たちが「ドッコイショ!ソーラン!」と掛け声をかけ、太鼓を打ち、身体を揺らしていた。
ソーラン節は、理性の解析を超えた「身体のフーリエ解析」である。リズムの振幅、掛け声の位相。
まるで、彼自身がもう一人のスペクトログラムとなり、自らの肉体で音を再構成しているかのようだった。
公園の広場で、奏者と踊り手が「ヤーレン ソーラン ソーラン… ハイ ハイ」のリズムに合わせ、太鼓を叩き、身体を揺らしながら舞う。
ショーペンハウアーはその中央に立ち、心の底で反響する♭6の低音と、掛け声の高揚との間に横たわる緊張を感じている。
「ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ハイ ハイ…」
「チョイ ヤサエ エンヤンサーノ ドッコイショ」
これらの囃子詞はまるで生命の脈拍であり、身体に直接語りかけるヴィブラートだ。
両腕を大きく振り上げ、「ドッコイショ!」と全身で叫んだ瞬間、世界はまるで電子回路が閉じるように、♭6からM6への回帰を始めた。
心臓がドクン、と跳ね、脳裏の低音の重しがゆっくりとほどけていく。
皮膚をかすめる空気の振動に、彼の意志はほろりと解け落ちる──それは音楽による“意志の否定”そのものだった。
「身体を通じて意志の望みが、ひととき、解かれ去った──それは痛みと渇望に満ちた世界の鎖を断ち切った瞬間であった。」
こう語る彼の胸には、依然として太鼓の余韻が残っている。だが、その余韻はもはや♭6ではなく、「純粋なる調和」の感触を伴うものだった。
ここで彼は引用する。ショーペンハウアーは音楽を、「他の芸術と異なり〈意志〉を直接に映し出すもの」とし、「音楽は世界の鏡である」と述べた。
さらに「音楽は意志の最も高等なコピーであり、苦しみを一時的に克服させるもの」とし、芸術による救済の根拠を語った。
「真の救済は、盲目的な意志の声から自由になることだ。そして、音楽はそれを一時的に実現させる手段である。」
彼が理解するには、芸術的救済は「一瞬の静寂」であり、「永続的回避」ではない。それでも意志が打ち砕かれる瞬間は、「意志なき認識主体」としての自覚をもたらす。
「意志への否定──それは、主体と対象の分裂を越え、ただ純粋な認識のみを残す永遠の一点である。」
「世界とは意志による苦痛である。しかし、音楽に身を委ね、掻き鳴らされる意志の緩和を通じて、我々は紛れもなく救われる──ただし、その救済は儀式的であり、常に更新させねばならない。」
「ソーラン節は、音楽と身体が一体となる退行的な祝祭であり、その場で私は再び“意志を止めた”のである。」
数年後、ショーペンハウアーはドイツの小さな町で静かな日々を送っていた。彼の著作は依然として読まれ、若者たちの間で哲学的な議論の種となっていた。しかし、彼の心の中には、あの公園での出来事が深く刻まれていた。
ある日、町の広場で地元の人々がソーラン節を踊っているのを見かけた。太鼓の音、掛け声、そして揺れる身体のリズムが、彼の記憶を呼び覚ました。彼は足を止め、しばらくその光景を見つめていた。
「音楽と身体の調和が、意志の束縛から解放するのだろうか?」
彼は自問自答した。あのとき、彼の身体は理性を超えて、音楽と一体となり、意志の否定を体験した。理性だけでは到達できない深い理解が、音楽と身体を通じて得られることを実感したのだ。
その後、ショーペンハウアーは音楽と身体の関係についての研究を深め、芸術がいかにして人間の意志を超越し、真の解放をもたらすのかを探求し続けた。彼の新たな著作は、音楽と身体の調和が哲学的な理解にどのように寄与するかを論じ、多くの読者に新たな視点を提供した。
そして、彼は生涯を通じて、音楽と身体の儀式的な力が、いかにして人間の意志の束縛から解放し、真の自由をもたらすのかを説き続けた。彼の哲学は、理性だけでは到達できない深い理解を求める人々に、今もなお影響を与え続けている。