写真が発明されるまでは、模倣としての芸術が存在していた。
『パンセ』で有名なパスカルはそれを「くだらない」と切り捨てた。
今はポストモダニズムだとか、芸術は終わっただとか、いろいろとややこしいことになっているみたいである。
僕は、芸術は抽象的で難解というイメージを持っている。
芸術作品に関しては、とらえどころがなく、よく分からないことが多い。
しかし、そんな世界だからこそ、今となってはようやく面白味を感じる段階に入ってきたかもしれないと感じつつある。
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この記事はこちらのつづきである。
そもそも「鑑賞」という行為のなかに「注意」が含まれている。
作品を鑑賞するには、ある程度の集中力が必要とされるのは自明だからである。
そして、注意があれば「反応」が結果として出てくる。
つまり、反応を題材にして書いた前回の記事と繋がっているというわけである。
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芸術鑑賞とはなにか。という漠然の問いたてに関しては、とりあえず「注意して拝見する、感じる」くらいのイメージからスタートしてもよいのではないだろうか。
ベンヤミンというフランクフルト学派の人物が、文学作品と翻訳、そして芸術に関して論じていた。
僕はそこから少しヒントを得た。
僕は芸術も「言語」であると考える。
そして、それは世界共通の「言語」である。
作品を「鑑賞」してもらうことで相手になにかしらのメッセージを伝えることができる、ということが意図されていると想定するならば、鑑賞とは芸術という文章の「読解」である。
つまりは、鑑賞者には「読解力」なるものが要されていると考えられる。
文学を俯瞰すれば、そこには「部分」があり「全体」がある。
芸術も構成という観点からみれば「部分」があり「全体」がある。
よく、デリダという難しい哲学者の使う言葉には、比喩や隠喩等、実は違う意味で使われていることが多いと仲正昌樹氏はいう。予備知識を知っていないととても読めたものではないという。
文学でいう「部分」とは単語であり熟語である。
これも芸術に当てはまると思われる。
つまり芸術を分析しながらみると、絵にも部分、全体、として分けて考えてみると様々な解釈が生まれると思われる。
これが芸術の複雑性、難解性の原因であると思われる。
1000文字をこえてしまったのでまたつづきを書きたい。
つづく