こちらは二年以上前に書いた記事なので補足します。
構造主義が正しいとは限りません。
テリー・イーグルトン『文学とは何か』においては、意味の決定性についてその後のポスト構造主義などと絡めて詳しく論じられているので、宜しければ手にとってお読みいただければと思います。
以前に記事に、ソシュールさんが「言語の意味は言葉の差異から生まれる」と述べたと書きました。今日はさらに奥に進みます。
辞書で調べても、結局また単語が出てきますよね。
優しい・・・・上品で美しい
上品・・・・・気品が高いこと
気品・・・・・気高い品位
品位・・・・・心の高さ
心・・・・・・精神的な働きのもとになるとされているもの
精神・・・・・人間の心
ループ確定ですね。
何故でしょう。説明します。
[ bat ] ・・・バット。野球選手が打つときに使うもの。
記号表現 (つまりbat ) をシニフィアンといいます。
そこからイメージされるもの、
これを記号内容、シニフィエといいます。
実はbatと↑ ↑ ↑のバットは、厳密には繋がっておりません。
シニフィアン1,シニフィアン2、シニフィアン3・・・・・・・・・・・・
シニフィアンの集合があって初めて↑ ↑ ↑のバットの意味が生まれると書いてあります。
それが「言語の意味は言葉の差異によって生まれる」の意味です。
さて本題です。
何故単語を調べるとループするのか。
文法的に正しい文は意味が定まります。
それについてこう書いてあります。
"シニフィアンが読み手を次のシニフィアンへと導く。その繰り返しで1個の文の場合プロセスに終わりがある。"
その繰り返しについて、「リレー」または「トレース(追跡)」と表現しました。
トレース可能な文を「自己完結的な意味」といいます。
記号の反復、つまりトレースによって意味が生まれると書いてあります。
つまり、辞書の単語はトレース不可能であるため、永遠と完結せず、堂々巡りになってしまうのでした。
僕は文学についてこう思います。
"「文」を解剖する学問"
捕捉:感情についても同じことが言えると踏んでいます。
「怒り」「悲しみ」など。これらも差異によって決まるのでは。
僕の関心は心理学へ向かいます。
『感情心理のハンドブック』を読んでいます。
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