差別についてその2
公私について考える。
差別が問題になるのはほぼ「公」においてではないだろうか。
それはある意味当たり前で、言ってはいけないことを公で言ってしまうから問題になる。
一昨日あたりに170cm以下問題が起きた。
しかしながら、僕は違和感を感じる。
「私」において、人はどの程度差別感情を抱いているのだろう。
倫理的な問題から、ミクロ的な視点、つまり心理学の立場から差別について研究することは困難を極めると考えられる。
マクロ的なデータから、社会学的アプローチで掘り下げていくしかない。
思うことは自由である。
「○○は人間的に終わっている」
と思うのは自由である。
たとえば、被害者が怒り狂って「アイツをいっそ○○してやりたい」と思っても、それを行動してはいけないのと同じように、差別に関することを「公」では言ってはいけない。
「私」においては、たとえば新橋の飲み屋にいけばいくらでも差別発言が飛び交っていることだろう。
行動を理性で抑えることよりも、言動を理性で抑えることのほうが困難ではないか。
僕はそのハードルの低さがまず「公」における差別の性質であるとみた。