「便利」を求めてきた人類史を振り返れば、皮肉な一行で要約できる。
モノが増えたおかげで、モノを探す時間が増えた、と。
財布の中にカードが増えると、必要なカードが見つからない。
冷蔵庫が大きくなると、食材がどこにあるかわからない。
リモコンが複数になれば、肝心のリモコンを探す時間が増える。
そしてスマホのアプリが増えると、使いたいアプリを探すのにスクロールが止まらない。
便利のつもりが、探すための不便を生んでいる。これ以上のブラックジョークがあるだろうか。
人はモノを増やすことで効率化を夢見てきた。収納を増やし、デバイスを増やし、サービスを増やす。しかし「選択肢が増える」ことは「探す負担を増やす」ことと同義だった。表面の効率化は、裏面の非効率を必ず伴う。便利の増加は、不便の温床である。
タレブ風に言えば、これは 「冗長性と混乱の取り違え」 だ。本来の冗長性とは、余剰をもって危機に備えることだ。しかし現代社会が抱え込むのは「余剰」ではなく「過剰」であり、選択肢が膨張した結果、人間の注意力を破綻させる。
冷蔵庫を開ければ、どこに何があるのかわからない。探す時間が長引き、同じものを二度買ってしまう。これが「便利なモノが不便を増す」典型例だ。買い物は楽になったはずなのに、冷蔵庫の奥で忘れられた食品が腐る。つまり、便利な保存の仕組みは「忘れる自由」を増やしたのだ。
あるいはパソコン。便利なフォルダ構造があればあるほど、ファイルを探す手間が増える。検索機能が進化したとて、検索のためのキーワードを思い出せず、結局「探す」という動作が消えない。情報が増えれば増えるほど、探す対象も膨れ上がる。
ここにブラックユーモアがある。「探さなくて済むはずの便利」こそが、探すことを常態化させている。
なぜこの逆説が生じるのか?
それは「便利」が常に「管理」を前提にしているからだ。
便利とは「整理された状態」で機能する。しかし整理を維持する労力は、人間の有限な注意力に依存する。つまり「モノを便利に使うために、モノを管理する」という二重負担が発生する。結果、便利さが増えるほど、管理対象も増え、「探す時間」が膨張する。
また、人間は便利なモノを増やすと「もっと使える」と錯覚し、所有を拡大する。収納グッズを買えば「収納するモノ」を増やす。クラウドサービスを契約すれば「保存するファイル」を増やす。つまり、便利の増加が需要を刺激し、不便を再生産する。
タレブ的に見れば、これは「リスクの集中」でもある。便利さは一点集中を生み出す。たとえばスマホ。電話・メール・地図・カメラ・支払い、すべてを集約した結果、スマホを失くせば人生ごと探すことになる。便利は「一点の破綻」に全体を晒す。冗長性を確保するどころか、脆弱性を高めている。
つまり、便利なモノが増えるほど、探すモノが増えるのは必然だ。
なぜなら「便利」とは「探す行為を一箇所にまとめた」だけに過ぎないからだ。
読書の世界も例外ではない。電子書籍が便利になった結果、本棚で背表紙を探す代わりに、クラウド上でファイルを探すことになった。要約サービスが増えた結果、どの要約を読むべきか探すことになった。知識の便利化は、知識を探す時間を増やした。
一冊の本を手に取り、偶然に開いたページで立ち止まる──その「不便」な経験のほうが、むしろ自由で豊かだ。読書梟ワールドが大切にするのは、まさにこの「誤配」である。モノが便利すぎると、誤配が失われ、探すことだけが残る。
この逆説は、社会制度にも当てはまる。便利な行政サービスが増えるほど、探す書類が増える。便利な保険制度が増えるほど、探す規約や条件が増える。少子化対策、健康制度、教育制度──すべて「便利にした」つもりで、利用者は「探す作業」に追われている。
「便利な制度のはずなのに、どうしてこんなに申請書類が多いのか?」という市民の嘆きは、文明のブラックユーモアそのものだ。
結局、便利なモノが増えると探すモノが増えるのは、人間が「不便に耐える知恵」を失うからだ。不便な時代には、少ないモノを大切に扱うことで、探す必要がなかった。だが便利な時代には、無限に増えるモノの中で、探すこと自体が日常となる。
なぞなぞの答えはシンプルだ。
「なぜ便利なモノが増えるほど、探すモノも増えるのか?」
答え:便利さが、探すという行為を永久化するから。
読書梟的に結論を出すなら──不便は自由を守る。便利は不自由を増やす。探すことを避けるのではなく、探さずに済む状態を生きること。それは便利の反対にある。
だから私はこう言いたい。
「探さなくても済む生活」は便利ではなく、不便の中にしか存在しない。
さいごに・・・
あなたが最近“探し続けている便利なモノ”は何ですか?