
ページ子は、ページをめくる音だけで存在を知らせる。
その音は軽く、ためらいがなく、無駄がない。
ホンすけはそれを、春先の薄い風の音に似ていると思っている。
彼女の読む本は毎回違う。
ただし、どれも厚くはない。厚い本を手に取るときもあるが、しばらく立ち読みしてから棚に戻す。
その姿は、湯気の立たないコーヒーを口に運び、そっと置く人のようだ。
ホンすけは、彼女がページをめくる瞬間だけ、自分もページをめくることがある。
偶然を装いながら、音が重なるのを聞く。
そこには意味はない。ただ、同じ音を共有することの薄い満足がある。
ある日、ページ子のページをめくる音が、ほんの少しだけ遅れた。
その間に、ホンすけは一行を読み返した。
内容は覚えていないが、その遅れのことだけは覚えている。
しおり男は、同じ本を何週間も机に置いている。
表紙は日に焼け、紙の端は少し丸まっているが、ページ位置はほとんど変わらない。
その本に挟まっているのは、カフェのレシートだ。
日付は月をまたぎ、印字が薄くなり、数字のいくつかは判読できない。
レシートの裏側には、何も書かれていない。メモとして使う気配はない。
ホンすけは時々、しおり男の手元を横目で見る。
彼は1ページを読むのに、十分以上かけることがある。
しかし次に見ても、そのページのままだったりする。
ある雨の日、しおり男のしおりが、前よりも3ページ進んでいた。
ホンすけは自分の読書スピードを少しだけ落としてみた。
なぜそうしたのかはわからない。
ただ、ページを進めすぎないことが、しおり男との距離を保つ方法のように思えた。
カバーさんは、文庫本のカバーを常に掛け替えている。
紙の質や色が違うカバーを何枚も持ち歩き、時には同じ日に二度、掛け替えることもある。
掛け替えたあとの本は、題名も著者名も見えない。
中身が何であれ、外側は新しくなったという事実だけが残る。
ホンすけはそれを、街の看板の張り替えに似ていると思う。
宣伝される商品が変わっても、建物は同じだ。
ある日、カバーさんがカバーを掛け替えている最中に、表紙が一瞬だけ見えた。
薄い自己啓発書だった。
だがホンすけは、それを覚えないようにした。
知ってしまえば、カバーの存在理由が少し減ってしまう気がしたからだ。
その日から、ホンすけはカバーさんの動作を、儀式のように眺めるようになった。
何の意味もないはずの儀式が、なぜか本を読む行為よりも印象に残った。
借りすぎ老人は、いつも限界まで本を借りて帰る。
袋の持ち手は手に食い込み、歩くたびに肩がわずかに上下する。
中身は文庫や新書がほとんどで、厚い本は少ない。
以前、貸出カウンターで彼が言ったことがある。
「読んだかどうかより、借りたかどうかだよ」
その声は冗談のようにも、本気のようにも聞こえた。
一週間後、同じ本をまた借りているのをホンすけは見た。
「前も借りてませんでしたか」と司書が尋ねると、
「そうだったかな」と笑いながら返した。
その笑みは、記憶の薄さを気にしていない表情だった。
返却期限だけは守る。
そのきっちりした動作と、ほとんど残らない読後感の組み合わせは、
ホンすけにとって、不思議な均衡に見えた。
棚の前の立ち読み夫婦は、いつも同じ棚の前に立っている。
夫は左端の本を、妻は右端の本を手に取る。
二人の視線は交わらず、手元のページだけを追っている。
時々、ページをめくる音がほぼ同時になる。
その瞬間だけ、二人は同じテンポで呼吸しているように見える。
だが次の瞬間には、音の間隔がずれ、また別々の時間が流れ出す。
ある日、夫が読んでいた本を棚に戻し、妻がその本を取った。
それは偶然だったのか、暗黙のやり取りだったのか、ホンすけにはわからない。
ただ、その本が薄い観光ガイドであったことだけは、はっきり覚えている。
二人は本を買わない。借りもしない。
読書は、立ったままで完結する。
歩き去る背中は、まるで読後感そのものが形をとったように見えた。
消しゴム女子は、いつも鉛筆と消しゴムを並べて机に置く。
本を開き、気になった文章に線を引く。
しばらくすると、その線を消す。
線を引くときの筆圧は弱い。
消すときも同じくらい弱い。
そのため、ページにはかすかな跡だけが残る。
だが光の角度によっては、その跡すら見えなくなる。
ホンすけは、彼女が線を消すたびに、本が軽くなっていくように感じた。
意味が浮かび、そして消える。
読書は、書き込みではなく、消去によって進んでいく。
ある日、彼女の消しゴムが小さくなっていた。
半透明のケースの中で、角のない白い塊になっていた。
ホンすけは、その消しゴムこそが、彼女の読書の成果なのではないかと思った
☆ホンすけと無言の共同体☆
第一章 ページ子
ページ子は、ページをめくる音だけで存在を知らせる。
その音は軽く、ためらいがなく、無駄がない。
ホンすけはそれを、春先の薄い風の音に似ていると思っている。
彼女は厚い本を選ばない。選んでも、しばらく立ち読みしてから棚に戻す。
ホンすけは、彼女のページをめくる瞬間だけ、自分もページをめくることがある。
偶然を装いながら、音が重なるのを聞く。
そこには意味はない。ただ、同じ音を共有することの薄い満足がある。
第二章 しおり男
しおり男は、同じ本を何週間も机に置いている。
しおり代わりのカフェのレシートは、日付が薄れ、数字が読めない。
彼は1ページに十分以上かけるが、次に見ても同じページのままだ。
ある雨の日、しおりが3ページ進んでいた。
ホンすけは、自分の読書スピードを少しだけ落とした。
理由はわからない。ただ、進みすぎないことが距離を保つ方法のように思えた。
第三章 カバーさん
カバーさんは、文庫本のカバーを何度も掛け替える。
掛け替えたあとは、題名も著者名も見えない。
内容よりも、新しくなった外側だけが残る。
ある日、カバーの下から自己啓発書の表紙が一瞬見えた。
だがホンすけは、覚えないようにした。
知れば儀式の理由が薄れる気がしたからだ。
第四章 借りすぎ老人
借りすぎ老人は、限界まで本を借りる。
読んだかどうかより、借りたかどうかを重んじる。
同じ本を何度も借りるが、返却期限だけは守る。
そのきっちりした返却と、残らない読後感の組み合わせは、
ホンすけにとって、不思議な均衡に見えた。
第五章 コピー機青年
コピー機青年は、本を読む前にコピーを取る。
読むかどうかは関係ない。複写すること自体が目的だ。
コピー機が故障していた日は、本を借りずに帰った。
ホンすけは、コピーされた紙束が机の奥で黄ばんでいく光景を想像した。
それは本の老化ではなく、複写の老化だった。
第六章 棚の前の立ち読み夫婦
立ち読み夫婦は、同じ棚の前で別々の本を読む。
時々、ページをめくる音が重なり、すぐにずれる。
ある日、夫が戻した本を妻が手に取った。
偶然か暗黙のやり取りかはわからない。
その本が薄い観光ガイドだったことだけは覚えている。
第七章 消しゴム女子
消しゴム女子は、線を引き、消す。
ページにはかすかな跡だけが残るが、光の角度で消えてしまう。
消しゴムは日に日に小さくなっていく。
ホンすけは、その消しゴムこそが彼女の読書の成果なのではないかと思った。
あとがき ― ホンすけより
名前も知らない人たちの背中を見ながら、
中身の薄い本を読み続ける。
ページをめくる音、返却期限、カバーの紙、コピー機の光、立ち読みの足の向き、
そして消しゴムのかす。
どれも本そのものではない。
だが、どれも読書の一部だった。