彼は、ドラム式洗濯機を背負って面接室に入った。
そしてそこには――もう一人、見知らぬ人物がいた。
白髪の紳士。やや古びたスーツ、落ち着いた目元。
名札にはこう書かれていた。
Gregory Bateson
“Contextual Observer”
ピアノを背負った面接官が軽くうなずき、言った。
「本日は特別にもう一人。彼は“関係性”の専門家です。主に、あなたが何をどう語るかを観察する役目です」
ベイトソンは微笑んだ。
「ドラム式ですか。Interesting. 自己と環境をどう切り分けるか、難しい選択ですね。ところで、それが自分のものだという保証は?」
「……?」
「あなたが今、背負っているものは、あなたの中にあるものか、それとも他者との関係の中で育まれたものか。それは、洗われるべき“あなた”なのか、それとも“あなたが洗いたかった他者”なのか?」
ガコン。洗濯機の中で何かがぶつかる音がした。
主人公は答えに詰まった。
彼は、自分が背負ってきたはずのこの機械が、他人の感情を洗い続けていたかもしれない、そんな気がしてきた。
「……わかりません。ただ、手放したくないんです。
洗い続けて、いつか全部きれいになるような気がして」
ベイトソンは、ふむ、と鼻を鳴らした。
「Interesting again. それは**“変化への信仰”**だ。しかし忘れないでください。洗濯機は、単に回っているだけでも満足する装置です。回ることと、変わることは、似て非なるものです」
ピアノの面接官が、静かに補足する。
「回り続けるドラムと、弾かれなかった鍵盤。
そのどちらも、“音”を出さずに時間を過ごすことはできる。
だが、選ぶべきは、音を出すことか、それとも回すことかだ」
「最後の質問です」と、二人の面接官が同時に言った。
ベイトソン:「それがあなたのものだと証明できますか?」
ピアノの男:「その音を、あなたは鳴らす覚悟がありますか?」
沈黙の中で、洗濯機が止まった。
中の窓から見えたのは、白いシャツ一枚。もう「K」の刺繍は、にじんで読めなくなっていた。
彼は洗濯機の音を聞きながら、面接官ふたりの視線を感じていた。
ピアノの男はそのままの重さで静かに立ち、
グレゴリー・ベイトソンは、ただ「身軽そう」に見えた。だが、その目だけが重かった。
主人公は、ふと思った。
「この人――本当に、何も背負っていないんだろうか?」
ベイトソンは目線を感じたのか、ゆっくりと彼に向き直った。
「気になりますか?」
主人公は戸惑いながらうなずいた。
「人は皆、何かを背負ってここに来るんですよね。なら、あなたも…」
ベイトソンは微笑した。
「私は、“意味”を背負っています。
ただし、それが物理的な形を持つかどうかは……文脈次第です」
主人公は何かを言いかけて、黙った。
そのとき洗濯機のドラムが、ひときわ高く「カラン」と何かを吐き出した。
ピアノの面接官が静かに立ち上がり、言った。
「面接は以上です。背負ってきたものは、すべて回答です。
評価されるのではなく――あなたが、何を問うかが最後の審査です」
面接は終わった。
洗濯機のドラムは静かになり、もう何も洗われていなかった。
主人公は静かに立ち上がった。
背負っていたドラム式洗濯機が、少しだけ軽く感じられたのは、気のせいだったか。
部屋を出ようとしたとき、ふと背後を振り返る。
そこには、ピアノの男と、ベイトソンがまだ座っていた。
「一つ、最後に質問してもいいですか?」
ベイトソンがうなずく。
「あなたは、何を背負っているんですか?」
ベイトソンはゆっくりと立ち上がった。
どこにも何も、背負っているものは見えない。影にも、それらしい形はない。
「私は――」
彼は一歩、主人公に近づいた。
「背負うという行為を、観察しているだけかもしれません」
「じゃあ、あなたは“自分”を背負っていないんですか?」
そのとき、ピアノの男が小さく笑った。
「彼は昔、自分自身を下ろしたんです」
主人公は何も言えなかった。ただ、見ていた。
ベイトソンは背中に何もないまま、窓の方へ歩いていく。
だが不思議と、彼の歩みには重みがあった。
それは、何かを“持っている人”の歩き方ではなく――
何かを“既に超えてしまった人”の歩き方だった。
扉が開いた。光が差し込む。
その光の中で、ベイトソンは最後に一言だけ、振り返って言った。
「人は“何を背負っているか”で迷うが、
本当に問うべきは、“誰がそれを背負っていると思っているのか”です」
そして彼は、静かに消えていった。