読んだ本
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メモ
"ベンヤミンは、芸術が大衆の娯楽として消費される時代には芸術の受容はきわめて政治的なものとなると指摘している。" (『<わたしたち>の到来』P85 )
→何故?
→(ベンヤミンによれば)"新しい社会構造に対する不可避の欲求がひそかに少数の有産階級の都合によって搾取される" (『<わたしたち>の到来』P85 )
・・・
"ウルフによれば、小説の映画化とは、文字を単純なイメージにおきかえてしまうこと(・・・)である" (『<わたしたち>の到来』P91 )
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日記
「公共の無意識」と題される非常に抽象的な議論を読み込んだ。
問いがあまりにも深淵なために、今日も自分の感想をいくつかノートにメモしたが内容が稚拙でとても公に書けるようなものにはならなかった。
マイケル・ノースの本は倫理と全体(=公共)に関する、政治的ではありながらも普遍的な事柄を扱った非常に深い文学的考察であった。
「我々が信じていることを主張するのが教育であり、我々が信じていないことを主張するのがプロパガンダである」という命題についてはいろいろと考えさせられた。
説得というものは「弁論術」の側面を持ち、それが「信じさせる技術」であることがソクラテスによって明かされる話である。
つまり、「同意」というものがある程度プロパガンダによって形成されるならば、それは公共的なものと言えるのだろうか。そういう話が展開されていく。
・・・
真理は奥が深い。
またしても相対主義というものが立ち現れてくる。
正義は相対的なものである、というお決まりの常套句である。
相対主義は直感的に同意できない。
池田晶子の言葉が真実であると直感レベルで確信している。
相対主義者の確信はどこにあるのか。
「絶対的な真理などない」
この命題は「絶対的な真理などない」という「絶対」主義を無条件に「肯定」してはいないだろうか。
このことについて相対主義者の全うな返答はどこに書かれているのか。
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関連図書