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読書日記934

読んだ本

引用元:版元ドットコム

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『二十一世紀への対話 (上) 』聖教ワイド文庫 (2002)

引用元:版元ドットコム

つづきを読み進めた。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

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日記

 

『それでも、読書をやめない理由』という本が本棚の目立ちにくい、最上段の端に置かれていた。パラパラとめくったがなにか感じるものがあったので読んでみることにした。

ひとまずトロツキーの言葉をメモに残した。

トロツキー「命が絶えるほどの情熱を燃やしてのみ、私たちは無限なものへの欲望にふけることができるのだ」

「私は不可能なものに挑む者だけを愛する」というゲーテの言葉を思い出した。

 

・・・

 

虚無の構造は気がつけば200ページ弱まで読み進んでいた。

ある程度、虚無の構造について整理がついたと感じる。

 

 

今日理解したことを書いていく。

まず、西部邁は「大衆」の定義を「パブリック・マインド(公共心)の欠いた人々」であるとしている。

「パブリック・マインド」とは西部邁によれば、

「自由ー秩序、平等ー格差、友愛ー競合」における平衡はいかにあるべきかと問う問題意識のことである。

 

 

西部邁は電車内においてスポーツ新聞に夢中のサラリーマン、電話に夢中の人、スナック菓子を頬張る人などを指して「ニヒリズムの大群」と書いている。

読み始めた時はよく分からなかったが、正直に言えばいまもよく分からない。

「いまの若者はけしからん」と同じ匂いがするのである。

 

 

しかしなんとなく言いたいことは伝わる。

西部邁は保守の人間であったので、日本の伝統が崩壊してしまったことを電車内で大いに感じ取って憂いているのであると思われる。

では日本の伝統とはいったい何なのか。

ひとつには「武士道」が挙がることは間違いない。

そして『葉隠』の精神で生きている執行草舟氏とここで繋がる。

 

・・・

 

西部邁ニヒリズムの克服方法として「決意」を実行することを挙げている。

"自分は決意をもって(あるいは宿命の下に)何事かを価値の根拠として選んだ(あるいはその根拠としの証人として自分が選ばれた)というふうに構えるほかない。(・・・)それを巧みに自分の生に組み入れる以外に、ニヒリズムを手懐ける方法はないのである " P158

 

 

この点が執行草舟氏の主張と重なる。

 

 

思想に根拠はない、ニヒリズムなんてものは幻想だという外野の声が聞こえたとしても、絶対的な真理というものが無いままの現状をみれば(政治哲学において顕著)、あらゆる行動において「正しさ」というものはない。つまり相対主義の枠からはみ出ることは不可能であって、どう生きるのかという問いを迫られたときに西部邁は以上の主張をしているのである。

 

 

執行草舟氏はニヒリズムに対しては言及が無いが、ヒューマニズムというもので満たされている現状を憂いている。

意見が分かれるところであるが、物が豊かになればなるほど結果的に人間は還元不可能な物質(核燃料ごみ、プラスチックなど)を量産し、自滅するかどうかの瀬戸際に立たされている。

トインビーを研究しつくした執行草舟氏はその文明論に依拠したうえで「もうどうにもならない」と書いている。

その状況でできることは「(『葉隠』の精神に従って)自身の運命を愛し、毎日体当たりする」ことだと執行草舟氏は言っている。

ある意味、こちらもニヒリストの側面を持っているように思われる。

 

・・・

 

トインビー氏との対話は400ページ弱読み進めた。

本日「上」を読み終えた。次に「中」、そして「下」までつづく。

 

 

人間の動物的側面である「性」の話からスタートし、心理学、精神分析へと展開されやがてマクロ的な心理の話に移行し、政治、歴史、文明、組織の話へと繋がっていく。

後半は「社会的な動物」としての人間について語られた。

 

 

内容は非常に濃密で、まとめようとすれば2万文字ほど要すると思われるので割愛。

この対談は西部邁の本と執行草舟氏の本のテーマと共通するものを持っている。

例えば若者の低い投票率 (ほぼほぼ、40パーセントもいかない) にはニヒリズムと無関係ではないと思われた。

 

 

新しい世代は往々にして古い世代に対する信頼がない。

これは古い世代が彼らの権限に固執することがひとつの原因として挙げられるということが語られたが、私もそう感じる。

いつの時代も新しい世代と古い世代の対立は無くならなく、人類は政治に成功したことがないとトインビーは語る。

 

 

それが西部邁のいうパブリック・マインドの欠如の原因でもあると思われた。

また、西部邁は「伝統の感覚に裏打ちされないような個性は私人主義(明確な定義はなかったが、おそらくは公共の場から遠ざかる、あるいは遠ざかろうとする態度を指すと思われる)に傾く」と書いている。

 

 

伝統とは先程にも書いたように、行動の原理としてはやはり「武士道」であると思われる。

トインビーとの対談では、宗教戦争が幾度となく繰り返され、いっそ宗教というものは失くしたほうがいいのでは、という疑問には「待った」をかけた。

宗教がなくなったとしても別の宗教がすぐに覆うと主張した。

マルクス主義がその典型であった。

伝統というものを無視すると全共闘のように、不毛な革命が起きる。

 

 

結局のところ、深い次元で宗教というものが必要になってくるという結論で「上」は幕を閉じた。

行動原理という意味では武士道も宗教ではないだろうか。

宗教というのは「形式」であって「内容」が最適なものであれば構わないと私は感じた。

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